夕陽のせい




 徐々に車通りの増えてくるこの時間帯でも、大通りから外れたところにあるアパートへの道は、わりと静かだ。
 ときどき、思い出したように車や人とすれ違いながら、オレとアカギはアパートへの道をぶらぶら歩いていた。

 右手に提げたスーパー袋が、ガサガサと音を立てている。
 中身はビールと、卵。
 今夜はニラ玉でも作ろうと計画していたのに、昨夜、いきなりアカギが卵焼きを食べたいとかワガママ言いだして、仕方なく作ってやったのだけれど、そのせいで貴重な卵がなくなってしまった。

 だから買い出しに出て、ついでにビールも買ってきた。
 もちろん、費用は全額アカギ持ちである。

 橙色の夕陽が、ちいさな街のすみずみまでを照らしている。
 光と影が、風景のあちこちで複雑な陰影を作っている。

 眩しさに目を細めていると、ふいに香ばしい匂いが鼻先を擽った。
 匂いの出所は、道沿いにある民家。どうやら、今晩のメニューはカレーらしい。
 開け放たれた窓から、子供の声が聞こえる。

 なんだか無性にカレーが食べたくなってきて、オレは隣を歩くアカギの方を見て言った。
「なぁ。明日の夕飯、カレー……」

 すると偶然、アカギもオレの方を見ていたらしく、視線がかち合った。
「……? なんだよ……?」
 顔をじっと見つめられ、ややたじろぎながら問いかけると、アカギは「べつに」と呟いた。

 そのくせ、視線はずっとオレの顔に固定されたままだ。
 なんだか据わりが悪くて、明日の夕飯の話は続けられなくなってしまった。
 チクチクと刺すような視線を無視して歩こうとしたけれど、やはり、どうにも気になってしまう。

 見つめられている側の頬がすこしずつ熱くなってきて、オレは横目でアカギを睨みつけた。
「……用がねぇなら、ジロジロ見んじゃねえよ……」
 ドスをきかせた低い声で凄んでみると、アカギはなにかを考えるような顔つきになったあと、ぽつりと言った。

「キスしたい」
「……!?」

 コイツがなにを言っているのか本気でわからなくて、一瞬、フリーズしてしまった。
 その隙にアカギはあろうことか、オレの方へ近づいて、頬に唇を寄せようとしてきやがった。
「おいっ……! やめっ、このやろっ……!」
 慌てて避けようとするけれども、アカギはしつこく迫ってくる。それも、巧みにオレの逃げ場を奪いつつ、じりじりと。
 こういうことにかけての、コイツの才能には脱帽する。
 周りを気にしながら後退するうち、ついに、背中に塀が当たってしまった。
 
「カイジさん」

 すぐそばから聞こえる、静かなテノール。
 なに堂々と落ち着き払ってやがると、心中で目の前の男に猛烈なツッコミを入れる。
 ツッコむべきところはもっと他にあるだろうって、オレ自身がいちばんよくわかってる。わかってるけど、頭がパニクってしまい、思考がうまく働かないのだ。

「キス、していい?」
 穏やかに問いかけられ、カーッと頬が熱くなっていく。
 きっとオレの顔は真っ赤になってるだろうけど、夕陽のせいだと思っててくれと、強く強く願った。
「どうして……こんなとこでっ……」
 弱りきった声でそう尋ねるけれども、
「どうしても」
 と、答えにならない言葉を返される。

 オレは呻いた。
 刺すように睨みつけてみるけど、目の前の悪漢にはまったく効いてない。
 十中八九、オレがオロオロするのを見て愉しんでいるだけなんだろう。ムカつくけど、壁際に追い詰められてしまっては、もはや逃げようもない。

 アカギはオレを見つめたまま、目的を果たすまで動きそうにない。
 キスなんてもってのほかだけど、野郎同士が公道でむさい体を密着させているという絵面も、あまり衆目にさらすべきではない気がする。

 ゴクリと唾を飲みくだし、オレは素早く周囲に目を走らせた。
「さっさと、終わらせろっ……」
 子供みたいに情けなく、か細い声が出てしまう。
 うつむいて唇を噛んでいると、頬にそっと手を当てられた。
「顔、あげて」
 囁かれ、なぜかちょっと泣きそうになる。
 意を決して勢いよく顔を上げると、アカギはやや目許をやわらげ、傾けた顔を近づけてきた。

 唇に、乾いた感触。
 初めてキスしたとき、コイツも唇はやわらかいんだ、なんて、当たり前のことにひどく驚かされたのを覚えている。
 それから何度もコイツの唇に触れ、触れられる機会があったけれども、未だにその感触には慣れることがなくて、初めてみたいに身を硬くしてしまう。

 挨拶みたいにほんの数秒、唇を触れさせただけでアカギは離れていき、オレの頬にある傷を指の腹で一往復撫でてから、その手もあっさりと引っ込めた。

 手を引く直前、

「明日、発つことにしたよ」

 穏やかに凪いだ声が、オレの鼓膜を静かに揺さぶった。


「ーー…………」
 心臓をひやりとした手で鷲掴みにされたかのような、強い衝撃がまず襲ってきて、アカギの発した言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。
 すぐには言葉が出てこなかったけれど、オレは痺れたような舌を無理やり動かし、
「いきなり、過ぎんだろ……」
 震える声で、そう呟いた。

「しつこい連中に追われてる。手段を選ばない奴らだから、あんたに迷惑かけちまうかもしれない」
 アカギは真顔でオレを見て言う。
 らしくもないその台詞に、オレは拳を握りしめた。

 迷惑、だなんて。
 今さらだろうが。

 お前が危ない橋を渡り歩くような生活をしてることなんて、百も承知だ。
 そんなことくらい、オレはなんともーー

 そう言いかけて、ぐっと唇を噛んだ。

 オレに迷惑がかかるから、なんてのは、きっと後付けの理由に過ぎない。
 コイツは、ここに留まってちゃダメなんだ。

 野生の鳥のように獣のように、何者にも縛られず自由に生きることが、おそらく赤木しげるにとって、なによりも大切なことなんだ。
 コイツは本能的にそれを理解しているから、一つ所に留まろうとしない。
 オレと離れて生きることは、コイツがコイツであるための、必然なのだ。

 オレは大きく息を吸う。
 肺いっぱいに取り込んだ空気を長いため息に変えて吐き出しながら、顔を上げ、しょうがない、って苦笑する。

「今度来るときは、手土産のひとつくらい用意して来いよなっ……!」

 そんな軽口を叩き、オレはアカギにニヤリと笑いかけた。


 今回は一週間。長い方だったんだ。
 退屈な日常も、コイツといると鮮やかに色づいているように見えた。
 とても居心地が良かったけど、いつまでもこの時が続くわけじゃないってことくらい、わかってたはずだ。

 夕暮れの街は、刻一刻とその色を変化させていく。
 燃えるような橙。視界が急にぼやけてきたのは、輝く夕陽が、目にしみたせいだ。
 自分にそう言い聞かせ、オレは敢えて、眩しい夕陽の沈む方へと目を向ける。

 水の膜の張った目ではハッキリと見えなかったけど、アカギはただ、微かに笑ったようだった。





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