甘い卵焼き



「お前、それ、どうした」

 対面からの声に顔を上げると、爬虫類に似た顔の男が眉を顰め、自分の額を人差し指でトントンと叩いていた。
 
「最近、ちょっと」
「……まさか、例の連中か?」

『例の連中』とは、先般、この男の依頼で代打ちした相手のことだ。
 ヤクザとも呼べないような、チンピラの寄せ集めの集団で、近ごろ、男の所属する組のシマで剣呑な動きが多くなっているらしい。

 一昨日の夜、オレに襲いかかってきたのも、まさしくその連中だった。
 男の言ったとおりなわけだが、にわかに凶暴さを帯びた低い声に答えるのが面倒で、オレは肯定も否定もしなかった。

「大した怪我じゃないですよ」

 そう言ってはぐらかそうとしたのに、男は不穏な顔つきのまま、日本酒をぐいと呷った。

「……悪かった。うちの組が不甲斐ないせいだな。数日中には、必ずそいつら黙らせてやる」

 律儀に頭を下げる男の声音には、誠実さと本気の怒りが滲んでいた。
 いまどき珍しいほど、義理人情に厚いこの男のことだ。
 きっと明日にでも、連中に制裁を加えることだろう。
 これでもう、夜道を十人がかりで襲われるというようなことも、なくなるわけだ。


 ……だが、そんなことよりも。
 オレにはもっと、気になっていることがあった。


「……甘く、ねぇんだな」

 ぽつりと漏らすと、えっ、と声を上げ、男がオレの方を見る。

「……あ、ああ、そりゃ甘くはない話だ。たかがチンピラとはいえ、バックにはうちと敵対する組もついてるって噂だしな。だが、世話になったお前に迷惑かけた、この落とし前は必ず……」

 なにを勘違いしたのか、熱弁を振るい始めた男の暑苦しい声を聞き流しながら、オレはさまざまな料理の並んだ卓の上に、じっと目を落としていた。

 白く四角い皿の上の、卵焼き。
 さっき、なにげなく一切れ口にしたとき、強烈な違和感を覚えた。
 その原因が『甘くない』からだということに、オレは今、ようやく思い至ったのだ。

 食べかけのそれに、再度、箸を伸ばしてみる。
 口に放り込めば食感はなめらかでふわふわと軽く、噛むと薄味の出汁が口の中いっぱいに溢れ出てくる。

 この料亭の卵焼きは、美味なのだと男が言っていた。
 たしかに、悪くない。けれど、オレはどうしても、この卵焼きが『甘くない』ってことに、違和感を拭えなかった。

 そこで気づかされる。
 オレの中で卵焼きといえば、甘いものだという認識が、いつの間にか出来上がっていたのだということ。

 甘いものは苦手なはずだった。それなのに、なぜこんな違和感を覚えるほどに、甘い卵焼きがオレの中で定着してしまったのか。
 心当たりは、ひとつしかない。
 カイジさんの作る卵焼きだ。

 カイジさんがたまに作る卵焼きは、甘いのだ。
 甘い卵焼きなんて胸やけがすると、つきあい始めた最初のころはしょっちゅう文句を言っていたのだが、変に頑固なところのあるカイジさんは、実家じゃこういう味付けだったと言って譲らなかった。
 仕方なく、そのパサパサと甘い卵焼きを無理やり口の中に詰め込み、白米で押し流すようにして食っていたのだけれど、そういえばいつの頃からだろう、そんな風にせずとも、カイジさんの卵焼きを普通に食えるようになっていた。


 どうやら、知らず知らずのうちに、味覚まで作り変えられちまったらしい。
 オレは苦く笑い、箸を置いた。

「帰る」

 そう言って立ち上がると、ひとりで喋っていた男は慌てた顔になった。
「口に合わなかったか?」
 男の問いかけに首を横に振り、オレは踵を返す。

 なんだか無性に、あの人の卵焼きが食べたくなったのだ。
 いつも甘くて、ちょっと乾きすぎている、たいしてうまくもないはずの、カイジさんの卵焼き。

 今出れば、ちょうどバイト帰りのカイジさんと、アパートの近くで行きあうかもしれない。
 今日は遅くなると伝えてあったから、きっと驚いた顔をするだろう。

 あんたの卵焼きが食べたくて帰ってきたんだと言ったら、どんな顔をするだろうか。
 ぽかんとして、それからちょっと赤くなって、それを誤魔化すために、わざと怒った顔をして。
 それから、ぶつくさ言いながらも、ちゃんとオレのために、甘い卵焼きを作ってくれるのだろう。

 そんなことを想像しながらあの人のもとへ帰ろうとしているという事実に、すこしの危うさを覚える。
 自分の根底が揺らぐような、本能的な危うさ。

 それでも、オレは呆然としている男に「それじゃ、」とだけ声をかけ、部屋の外へ出た。

 庭に面した窓を見上げると、夜空には卵焼きのような色の丸い月が出ていて、オレは足を速めたのだった。





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