猫・2





 本当になぜ、こんなにもこの人が気になってしまうのだろう。
 自分の腕に血圧計のカフを巻いている看護師の、俯きがちな表情を盗み見るようにして眺めながら、カイジは内心、首を傾げる。

 昨夜は、読みかけの雑誌を開いたまま、気がついたら眠ってしまっていた。
 そして、今朝、この看護師のノックの音で目を覚ました。

 昨日と変わらず黙々と仕事をこなす看護師から、テレビへと視線を移す。
 朝のニュースのお天気コーナーで、可愛らしい笑顔を振りまいている気象予報士。目の前のクールな看護師よりも、彼女の方が、断然カイジの好みのタイプであるはずなのだ。

 それでも、気がついたら、視線は自然と看護師の方へ吸い寄せられてしまう。
 カイジには、お天気お姉さんに抱いている『憧れ』とは別種の感情が、看護師に対して働いているような気がしてならないのだった。

『憧れ』よりも、もっと身近で、親しみのある感情。
 その正体がなんなのかはわからないけれども、とにかく彼女を放っておけなくて、どうしても目で追わずにはいられない。

「……なにか?」
 いつのまにか血圧を測り終えていた看護士に、訝しげに問いかけられ、カイジは慌てて首を横に振った。
 どうやら、無意識のうちに彼女の顔を、じっと見つめてしまっていたらしい。

 ぎこちなく目線を逸らすカイジに不審げな顔をしつつも、看護師はテキパキと血圧計を片付け、
「今日は、あとでお粥出しますから。食べられそうだったら、食べてください」
 淡々とそう言って、病室から出て行った。

 テレビの音だけが病室に響くなか、カイジはここ数日ですっかり癖になってしまったため息を零すと、点滴を引きずって窓際まで歩き、カーテンを開ける。
 今日も良く晴れ、気持ちのいい日だ。
 こんな日に、病院の中にいなくてはいけない我が身を、カイジは深く嘆いた。

 また、昨日と同じ、無聊をかこつ一日が始まる。
 窓の外をぼんやりと眺めながら、早く少年が来ればいいのに、と、心の底からカイジは思った。
 



 体調はかなり回復しているらしく、カイジは朝食に出された粥をきれいに平らげた。
 飯を食い終えると、早速することがなくなってしまった。
 どうにも手持ち無沙汰になったカイジは、昨日同様、こっそりと病院を抜け出して、中庭へと足を向けたのだった。




 中庭には、ちらほらと人の姿があった。
 青々とした葉を心地良さそうにそよがせる木々の下を、車椅子を押して歩く人や、ゆっくり歩く老人とすれ違いながら、カイジは昨日座ったベンチに向かう。


 まだ真新しい木のベンチは、日陰になっているせいで、座るとひんやりしていた。
 タバコ、吸いてぇな……。
 そんなことを考えながら視線を巡らせ、隠れて吸えるような死角がないか探すが、当然、そんな場所などあるはずもない。

 がっくりと肩を落とすカイジの耳に、 にゃあ、という鳴き声が飛び込んできた。
 反射的に振り返ると、金色の瞳と目が合う。
 昨日と同じ黒猫が、またしても、植え込みの陰から顔を覗かせていた。

 本当に、どこから入ってくるのだろう。
 ……ひょっとして、ここに住み着いているのだろうか?

 きらきらと光る琥珀のような瞳としばらく見つめ合っているうち、カイジは急に、この猫がとても可愛い猫のように思えてきた。
 顔だけしか見えていないのに、おかしな話だ。
 だけど、この目に見つめられると、魂ごと惹きつけられてしまうような気分になるのだ。
 少年が神さまの力を使って従わせようとするときの、あの感じに似ているけれども、あれよりももっと野蛮で、無理やり押さえつけられるような強制力がある。

 気がついたら、カイジは猫の方に手を伸ばしていた。
 近づいてくるカイジの手を、猫は微動だにせずに見つめている。
 顎の下を擽るように撫でると、猫は気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
 温もりと、ドクドクと脈打つ確かな鼓動が、カイジの手に伝わる。
 本当に不思議な猫だ。
 そう思いながら、カイジがぼんやりと猫を撫で続けていると、

 ざらり。
 
 熱く濡れた感触が指の先を這い、カイジは火傷でもしたかのような素早さで、反射的に手を引っ込めた。
 声も出ないほどびっくりしているカイジをじっと見たまま、カイジの手を舐めた赤い舌で口の周りをベロリと舐めると、猫は植え込みの奥へと姿を消した。

 カイジはしばらくの間、夢でも見ていたかのように固まっていたが、吹いてきた風の冷たさにハッと我にかえると、慌てて立ち上がり、病院へと引き返したのだった。







 病室に戻ると、窓際に白い後ろ姿が立っていた。
 昨日とまったく同じ光景の連続に強烈な既視感を覚えながら、カイジは少年に声をかけた。
「よぉ。お前、来てたのかよ」
 この台詞を言うのも、二度目である。
 しかし、昨日と違うのは、カイジの声を拾ってぴくぴくと動く耳としっぽが隠されていることだ。

 どうやら、不承不承ながらも、少年は昨日の言いつけをちゃんと守っているらしい。
 微笑ましさに頬を緩めながら、カイジは少年の傍に寄った。

「見舞いの品とか、ねぇのかよ」
 軽口を叩くと、
「相変わらず、不遜な人間だな……稲荷神が直々に顔見に来てやってんだから、それだけでも身に余る光栄だと思いなよ」
 つけつけと、そう返される。

「オレがいなくても、ちゃんと飯、食ってるか?」
 母親のようなことを言いながらカイジがベッドに上がると、少年は丸椅子に腰掛けながら、首を横に振った。
「人間と違って、オレは飯なんか喰わなくても、活動を維持できるから」
 口を開きかけたカイジを牽制するかのように、少年は素早くそう言ったあと、
「……あんたと一緒じゃないと、あえて飯なんて、喰う気にならない」
 ぽつりと、そうつけ加えた。

「そ、そう……なのか? まぁ、お前がそう言うんなら、いいんだけどよ……」
 少年の思いも寄らぬ発言に気勢を削がれたカイジは、なんだかドギマギしながらそう言って、黙る。
 少年は細面をすこし俯かせていて、それがまるで、しょんぼりと項垂れているかのようにも見える。

 奇妙な沈黙にいたたまれなくなって、カイジがテレビのリモコンに手を伸ばしかけたそのとき、ふいに少年が顔を上げた。
「っ、どうした……?」
 見慣れたはずの美しい顔にドキリとしながら、カイジが問いかけると、少年は高い鼻をすんすんと鳴らし、眉を顰めた。

「……臭いが、濃くなってる」
「……!!」

 羞恥にカッと赤くなり、カイジは思わず大きな声を出す。
「うっ、うるせぇっ……!! こちとら病人なんだ、それくらいーー」
「だから、そうじゃないってば」
 面倒くさそうにカイジの剣幕を遮って、少年はなにかを考え込むような顔つきになる。
「じゃあ、いったいなんなんだよ、『臭い』って……?」
「…………」
 カイジの言葉が聞こえていないかのように、少年はしばらくの間、黙り込んでいた。

 完全に質問をスルーされたカイジだが、少年の珍しく険しい顔つきに言葉を呑み込まざるを得ず、しかたなく、少年が口を開くのを待った。
 やがて、少年はなにごともなかったかのようにいつものポーカーフェイスに戻ると、スラックスのポケットを探り、正方形の赤い紙を取り出した。
 折り紙のようだが、普通のサイズより一回り大きなそれは、少年の瞳のように鮮やかな緋色をしている。

 いったいなにを始めるのかと注視するカイジの目の前で、少年はその紙を三角に折った。
「あんた、ぼんやりしてるから。つけ込まれやすいんだ」
「……はぁ?」
 なんの脈絡もなくいきなり罵られ、カイジはちょっとムッとする。
 だが、少年はそんなカイジに構うことなく、黙々と紙を折り続けた。

 赤い折り紙は、こまごまと動く少年の手の中で、あっという間に鶴の形に折られていく。
 閉じていた羽を大きく広げ、鶴の腹の下に唇を当ててふっと息を吹き込むと、少年は完成した折り鶴を、カイジの方へ差し出した。

「見舞いの品」
「…………」

 なにをか言わんや、という気分で、折り鶴と少年の顔を交互に見るカイジだったが、しかたなく手を伸ばして鶴を受け取る。
「じゃあ……もう行くから」
「えっ!?」
 用事は済んだとばかりに立ち上がる少年に、カイジは思わずそう声を上げていた。
「なに? なんか、話でもあるの?」
「い、いや……、そういうわけじゃねぇけど……」
 モゴモゴと口ごもるようにカイジは言い、怪訝そうな少年の顔から目をそらす。

 せっかく来たんだから、もっと居てくれたっていいのに……
 あいにくと、そんなことを素直に言える柄じゃなく、カイジがもじもじとしている間に、少年はさっさと部屋の入り口へと歩いていってしまった。

「それじゃ」
「あ……」
 引き止めるための言葉も出てこなくて、口を開いたまま固まっているカイジを置き去りにして、白いドアが非情にも閉ざされる。



 悄然としながら、カイジは手の中の赤い鶴に目を落とした。
 今日は昨日のように機嫌を損ねたわけではなかったようだけれど、それにしても、あまりにもそっけない態度である。
 ちょっとだけ、少年を逆恨みするような気持ちになって、カイジは折り鶴を握り潰してやろうかと思ったが、やたらと真剣そうだった少年の表情を思い出し、踏みとどまった。

『……あんたと一緒じゃないと、あえて飯なんて、喰う気にならない』
 聞き間違いではない。少年は、たしかにそう言った。
 腐った気持ちを切り替えるように、カイジは大きく伸びをする。

 体力も回復してきたし、明日には退院できるといい。
 そしたら……、あいつに飯、作ってやろう。
 くだらない話をいろいろしながら、一緒に、腹いっぱい飯を食おう。

 そんなことを考えながら、カイジは手中の折り鶴を、枕許にそっと置いたのだった。




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