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空気の乾いた、清潔な朝だった。
冷たい水で顔を洗い、鞄ひとつを手にアカギが三和土に下りると、背後から裸足の足音がした。
「……起こしちまったかな」
靴を履きながらアカギが言うと、背中に声がかけられる。
「黙って出て行くなって、言ってんだろ」
アカギは振り返り、男の顔を見た。
きつく吊った目が、不機嫌そうに眇められている。
男ーー伊藤開司という名のギャンブラーとアカギは、そう長い付き合いではない。
数ヶ月前にある賭場で出会い、カイジの方から声をかけてきた。
アカギの博才にひどく心揺さぶられたようで、いろいろな話を聞きたがった。普段は無口な方なのだろう、興奮でうまく舌が回らず、ときどき吃ったりとちったりして、赤くなるのが子どものようだった。
じっくり話をしてみると、男の方も並の博奕狂いではないらしく、危ない橋をいくつも渡って己が命を燃やすようなことを繰り返しているらしい。
無愛想に見えて他人に甘いところがあり、必ず一度は騙され、裏切られなどして煮湯を飲まされるが、土壇場での閃きと冷静さ、豪胆さで勝利をもぎ取る。
珍しく、アカギが食指を動かされる話も幾つかあって、会話をするだけでも、退屈しなかった。
宿無しだと言うと、うちに泊めてやると言い出した。
さほど気乗りはしなかったが断るのも面倒で、寝床を探す手間が省けることを考えればまあ悪くないと、素直に頷いた。
男の部屋は雑然としていたが、足の踏み場もないというほどではなく、最低限の掃除は行き届いているようだった。ほどよい散らかり具合は、ヤクザが用意するようなしかつめらしい宿より、よほど居心地が良かった。
その後、幾度かアカギは男の部屋で眠った。三度目に訪ねたときには、安物ではあるが客用の布団まで用意されていた。
たまに安酒を呑みながら話もするが、基本的に一夜の宿をとるだけだ。ほとんど他人同然のような関係でも、お人好しで甘い性格の同世代の青年は、すこしずつ不器用に、アカギへの親しみを露わにし始めていた。
『黙って出て行くな』と咎める声も、二回目に泊まったときからずっと聞いている。
アカギが出て行く時間には、たいがい男はぐうぐう鼾をかいていた。
『さよなら』なんて挨拶を交わすためだけに起こすのはナンセンスだと思ったから、アカギはカイジを起こすことなく出て行くようにしていたのだが、そうすると次に訪ねたとき、カイジは必ず咎めてくるのだ。
馬耳東風のアカギは気にせず今日もさっさと出て行こうとしたのだが、珍しく起き出した家主に見咎められてしまった。
お人好しもここまでくると呆れると、アカギはため息をつく。
その音に反応して、カイジの肩がぴくりと動いた。
「べつに……必要ないでしょ、挨拶なんて」
意図せず、冷たく突き放すような言い方になった。
カイジは寝癖だらけの頭を掻きながら、ふいと目線を逸らす。
「そりゃ、そうかもしれねぇけど……、でも、お前、急に来なくなりそうだから……」
もごもごと歯切れ悪く呟き、口を閉ざす。
カイジがうつむくと、乱れた髪がバツの悪そうな表情を隠した。
丸まった背中が、まるでしょげ返っているかのように見えた。
そこそこガタイのいい成人済みの男だということを、一瞬だけ忘れてしまうような姿だった。
『急に来なくなりそうだから』せめて毎回、見送りたいということなのだろうか。
ほんのわずかのあいだ、思考が止まり、アカギは衝動的に身を乗り出してカイジに近づいていた。
うつむく顔を覗き込むようにして唇を塞ぐと、カイジが体を強張らせるのがわかった。
至近距離にある大きな目が、零れそうなくらいに見開かれてアカギの目を見つめている。
しんとした玄関先に、ときおり、密やかな衣擦れの音。
数秒ののち、アカギが唇を離すと、カイジはひどく間の抜けた顔のまま固まっていた。
アカギも予期せぬ自らの行動に少なからず驚いていたが、カイジの驚きぶりを前にすると逆に冷静になれる気がした。
とりあえず石から人間に戻そうと、アカギが口を開いた瞬間、
ぽろり、と、見開かれた瞳から、透明な雫が溢れ落ちた。
今度は、アカギが固まる番だった。
赤の他人に近い同性にいきなりキスされて、嫌悪感のあまり泣いているのかと思ったが、それにしては様子がおかしい。
カイジは相変わらず呆然としたまま、次から次へと溢れる涙を拭うこともなく、ただただ、アカギの顔を食い入るように見つめていた。
まるで、自分が泣いていることに気がついていないかのようだった。
「……なんで?」
ややあって、掠れた声を絞り出すようにしてカイジが呟いた。
それは至極当然の問いのはずなのに、途方もなく間抜けに響いた。
なんで、と言われても、気がついたらそうしていただけだ。その衝動を、言葉にすることはできないように思われた。
「……さあ……」
わずかな逡巡もなくアカギがそう返すと、皿のような目がさらに大きくなった。
「さあ、って……」
気の抜けた声を漏らし、そこで初めて、カイジは頬を伝うものの存在に気付いたようだった。
ハッとした顔になり、慌てて顔を拭うが、流れる涙は一向に止まる気配を見せない。
アカギがカイジにキスした理由を説明できないのと同じように、カイジの涙は本人の意思のそとで、溢れ続けているのかもしれなかった。
思うままにならない自分の体への苛立ちとともに、顔を擦る動きが段々と荒々しくなってくる。擦り剥きそうなほど真っ赤になった顔で、カイジは、ちくしょう、と吐き捨てた。
「なんで……いきなりこんなことすんだよぉ……」
情けなく弱々しい声は、困り果てて途方に暮れているようだった。
背中を丸め、自分の身を守ろうとするように蹲る姿は、やはり二十歳を超えた青年のそれではなく、ちいさな子どものようだった。
その姿に、なぜかアカギが出会ってから今までの、カイジの仕草や表情が、いくつもいくつも重なって見えた。
初めて会ったときの博奕の後、おっかなびっくり肩を叩いてきたこと。
博奕の話をすると、もともと大きな目をさらに大きく、きらきら輝かせていたこと。
暫くぶりに訪ねたとき、安心したような、くすぐったいような表情で出迎えてくれること。
ああ、そういうことだったのかと、アカギはようやく腑に落ちた。
単に、度を超えたお人好しの性分を、自分に対しても発揮しているだけだと思っていた。
だが、どうやらそれは、アカギの思い違いだったようだ。
それと同時に、言葉では説明できないと思っていた自分自身の行動の理由も、たったの一言で簡単に言い表せることに気がついて、アカギは笑った。
それは、珍しく自嘲するような笑みだったが、同時に、愉しげにも見えた。
「……なぁ、カイジさん」
軽い調子で呼びかけて、濡れた目が恨めしげに見上げてくるのを待ってから、アカギは続ける。
「出て行きたくなくなった」
花が綻ぶくらいのスピードで、ゆっくりと目の前の表情が変わっていく。
それに合わせて、今、この場で、自分自身を含むいろいろなものが変化していくのを、はっきりとアカギは感じ取っていた。
終
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