年始・2





 アパートの部屋の灯りは消えていた。
 しかし、少年の帰りを確信していたカイジは、さらに足を速め、二階の部屋へと急ぐ。
 
 鍵を挿してそっとドアを開け、靴を脱いで部屋に上がる。
 灯りを点けぬまま、ひたひたと足音を忍ばせてベッドの方へと向かうと、カーテンの隙間から射す月明かりの中、掛け布団の下がこんもりと膨らんでいるのが見て取れた。

 さらに近づいてベッドの傍らに立ち、カイジは思わず頬を緩ませる。
 頭まですっぽりと引き被った掛け布団の下から、真っ白なふたつの狐耳だけが、ピョコンと顔を覗かせているのだ。
 耳をすませば、布団が上下するのに併せ、すうすうと軽い寝息が聞こえてくる。


 去年のこの日も、カイジが真っ暗な部屋に戻ったとき、少年はこんな風にすっぽりとベッドに潜り込み、深々と眠りこけていたのだ。
 夜、眠るとき、少年は獣の姿に戻るのが常なのだが、三が日の仕事がよほど疲れたのか、人型のまま熟睡していた。

 布団の膨らみの大きさを見るに、どうやら今年も、変身を解く暇もないまま力尽きてしまったらしい。
 去年はなにがしかの心境の変化があったのか、神さまの仕事を頑張ってこなすようになった少年だが、それでもやはり、書き入れ時(?)の忙しさには負けてしまうようだ。

 音をたてぬよう、カイジは提げていた荷物をそろそろと床に下ろす。
 穏やかに上下する布団と、ピクリとも動かない大きな耳を、目を細めてしばらく眺めていたが、そのうち、落ち着かなさげにソワソワし始めた。

 たったの三日会わなかっただけなのに、なぜだろう、どうしても顔を見たくてウズウズしてしまうのだ。

 起こしてしまってはかわいそうだと思いながらも、『顔が見たい』という願望をおさえることができず、カイジはそっと手を伸ばし、掛け布団の端を掴む。
 そういえば去年も我慢できずに、こうしてコッソリ寝顔を盗み見たよなぁと思い出してひとり苦笑しながら、カイジはうすい掛け布団をゆっくりと捲りあげた。

(……うっ……!!)

 布団の下から現れた顔を見た瞬間、カイジは固まってしまった。
 そこにあったのは、よく見知った少年の、あどけない寝顔ーーではなく。
 つめたそうな白い瞼を閉ざし、形のよい唇をうすく開いて眠る、細面の青年の寝顔だったのだ。

 カイジはちいさく息を飲み、金縛りにあったように、青年の顔から目を逸らせなくなってしまった。

 青白い月明かりに照らされ、白皙の肌は磨かれた珠のようにつやつやと光っている。
 絹糸の髪と獣耳も、月影の下では真新しい雪のような銀色に輝き、細い眉や高い鼻の造作が作る陰影が、見ていると魂を根こそぎ奪われてしまいそうなほど美しい。

 白い睫毛が落とす繊細な影や、整った唇から吐き出される微かな吐息まで、青年のすべてがとても尊いもののように感じられ、カイジはぶるりと胴震いした。
 見るものに畏れを抱かせる、神の御姿。しかし、もっとも強い力を持つ紅玉の瞳が閉じられているお陰か、カイジは比較的早く落ち着きを取り戻すことができた。
 
 静かに大きく深呼吸してから、改めて青年の寝顔を見下ろす。
 冷静に眺めてみると、その寝顔は思ったよりも大人びていない。起きているときは明らかに自分より年上にしか見えないのだが、こうして目を閉じていると、同い年か、あるいは年下にさえ見える。
 その、玲瓏たる容姿のあちらこちらに、ちゃんと少年の面影が残っているのが見て取れた。
 こんなにもまともに青年の顔を見ることができたのは初めてのことで、カイジは思わず、つくづくとその秀麗な顔に見入ってしまう。

 青年は起きる気配もない。いつもなら、寝ている間もまるで野生の獣のように、微かな衣擦れの音や気配にも敏感に反応しては耳をぴくぴくさせているというのに、今日に限ってはそれもない。
 それほど疲れきっているのだと思うと、青年を労ってやりたい気持ちがムクムクと湧いてきて、カイジはそっと手を伸ばし、いつも少年にしてやってるみたいに、青年の白い髪を撫でた。
 
 去年は、本当にいろいろなことがあった。
 青年の頭を撫でながら、カイジは回想に耽る。

 立派な神さまになった未来の少年に会うことができたし、神社の裏山で花見もした。
 夏風邪をひいたときは少年が不慣れな看病をがんばってくれたおかげで、早く快方に向かうことができた。
 そしてちょうどその頃、少年は今の姿に成長したのだ。

 あのときは、急なことだったのでカイジは驚いたものだが、少年もまた驚きを隠せない様子だった。
 ナイフのような目をまん丸にして自分の姿に見入っていたあのときの姿は、今思い返せば、なかなか可愛かったかもしれない。
 カイジはひとり、思い出し笑いに肩を震わせる。

 本当に、よく頑張ってるよなぁ、コイツ。
 微笑ましい気持ちになりながら、カイジは青年の髪を撫で続けた。

 少年が神さまの仕事を頑張るようになったのは、きっと好きな相手に受け入れてもらって、一緒になりたいからだ。
 少年が立派な神さまに近づけば近づくほど、自分と離れる未来も近づいているのだと思うと、カイジには正直ちょっと、寂しくもある。
 けれど今は、強いてそれを考えないようにして、少年をちゃんと本気で応援してやろうと、もうずっと前から心に決めていたのだった。


 細い髪はカイジの指の隙間をつめたい水のようにすり抜け、さらさらと零れ落ちていく。
 不思議なその感触が面白くて、無意識になんどもなんども繰り返しているうちに、ぴったりと閉じ合わされていた白い瞼が、ふっと開いた。

「……カイジさん?」
「!!」

 心地良いテノールに名前を呼ばれ、ハッとして青年の顔を見たカイジは、緋色の双眸に射竦められ、文字通り飛び上がった。
「うっ、うわぁっ……!?」
 間抜けな声をあげるカイジを見て、青年は軽く目を見開いたあと、すぐになにかに気がついたように素早く起き上がる。
 ビクッとして飛び退くカイジをよそに、青年は自分の掌に目を落としたあと、軽く舌打ちして、口を開いた。
「……悪かったね」
「えっ?」
 意外な台詞にカイジが青年の顔を見ると、青年は白い瞼を静かに伏せ、ぼそりと呟いた。
「……今、ガキの格好に戻るから……」
「まっ、待てっ……!」
 目を閉じて意識を集中させ始めた青年を、カイジは慌てて止める。

『どうしたの』と問いかけてくる切れ長の瞳から微妙に目をそらしながら、カイジはひとつ、咳払いをした。
「……お前、疲れてるんだろ? 無理すんなよ」
 目を背けていても自分の顔に痛いほど注がれる視線を感じ、居心地悪そうにカイジが身じろいでいると、やがて、青年がぽつりと言った。
「でも、あんたこの姿苦手なんだろ……? 胸を悪くするくらい」
 淡々とした声に似つかわしくない気遣わしげな台詞に、カイジは軽く目を見開く。

 どうやら、以前『心臓に悪い』と言ったのを、少年は額面どおり受け取って、自分の体調を慮ってこの姿になるのを控えていたらしい。
 ……ということに、カイジは今、ようやく気がついたのであった。

 弾かれたようにカイジが青年の顔を見ると、青年はフイと目をそらして明後日のほうを向いてしまう。
 一見、無愛想に見える仕草だが、これも自分が『見つめられると動悸がする』と言ったためなのだということがわかって、カイジはつい、噴き出しそうになってしまった。
 人間の知識に疎いこの神さまは、ときどき、妙なところでズレたやさしさをみせる。

「大丈夫だよ。こっち、見ろって」
 やわらかく声をかけてやると、狐耳がピクリと動き、白い顔がゆっくりとカイジの方へと向けられる。
 まるで叱られた子供みたいなその仕草に、カイジはすこし笑い、改めて「お疲れ」と青年を労ってやった。

「今年は、この姿で年始の仕事してたのか?」
 カイジが問いかけると、青年は微かに頷く。
「こっちの姿のが、大きな力を使えるから。倍くらい仕事が捗る」
「へぇ〜……」
 感心したようにカイジがそう呟いたのを最後に、ぷつりと会話が途切れる。

(し、しまった……っ)
 沈黙の中、深紅の瞳とじっと見つめ合うことになり、カイジは慌てた。
 思い出したかのように襲い来る、激しい動悸。
「え……えーと……」
 などと無意味な呟きで気を紛らわしながら、カイジは次の話題を探そうとするが、頬は火照るわ心臓はドキドキとうるさいわで、もううまく思考がまとまらない。

 真っ赤な顔で汗をかきながら視線をうろつかせている、明らかに挙動不審なカイジの様子を見咎め、青年が細い眉を寄せた。

「カイジさん」
「……ッ!!!」

 つめたい手にいきなり腕を掴まれ、危うくカイジの心臓が止まりかける。
 おまけに間近で顔を覗き込まれ、カイジは酸欠の金魚みたいに真っ赤な顔で口をパクパクさせた。
「……本当に、大丈夫? 今からでも、ガキの姿に戻ろうか?」
 ぼそりと呟かれたその言葉に、カイジはハッとする。

 至近距離にある整った顔は、いつものポーカーフェイスをほんのすこし陰らせていて、青年が本気でカイジのことを心配しているということが見て取れた。
 萎れたように下げられた白い大きな耳を見ていると、去年夏風邪をひいたときの、寄る辺ない少年の姿が自然と思い出される。

 暴れる心臓をどうにか落ち着けると、カイジは青年の顔をまっすぐに見返し、口を開いた。
「い、いや……いいよ。いいかげんオレも、その姿に耐性つけなきゃいけねえからな」
 そこまで言って、カイジはニッと青年に笑いかけてみせる。
「この先も、オレはお前と一緒に暮らしてくわけだし」
 上擦ってはいるが、できるだけ真摯な声で、カイジは青年に答えたつもりだった。

 だが、青年は耳をピンと立て、目を見開いて固まったあと、掴んでいたカイジの手をパッと離し、深くうつむいてしまう。
 予想外のリアクションに、今度はカイジが気遣わしげな顔になる。
「ど、どうしたっ……? 具合でも悪ぃのか……?」
 そう尋ねたところで、青年の背後にある三本のしっぽがわさわさと大きく揺れているのに気がついて、カイジは目を丸くした。
 よくわかんねぇけど、とりあえず、体調が悪いわけじゃなさそうだ……とホッとしたのもつかの間、

「ちょっと……今、あんまり近寄らないでくれる」
「……は?」

 つっけんどんな口調でいきなりそんなことを言われ、カイジは呆気に取られてポカンとしてしまう。

「なっ、なんで……っ? オレ、お前に嫌われるようなこと、なんかしたかっ……?」
 突然の態度の豹変にまごまごしながら、『近寄るな』という言葉を完全に無視し、どうにか青年の顔を覗き込もうと奮闘するカイジ。
 なぜかうっすら涙目になっている情けない顔をチラリと見て、青年は苛立ったようにため息をつくと、地を這うような声で呟いた。

「……今、気ぃ抜くとあんたのこと、襲っちまいそうだから」

 そう吐き捨てたあと、赤く燃え盛る瞳で、青年は射抜くようにカイジを見つめる。
 もともと大きな目をこれ以上ないほど見開いて、カイジはサッと顔色を変えた。
「襲……って、……は……っ?」
 ふたりの間に、未だかつてないほどの緊張が走る。

 しばらくののち、カイジは震える手でシャツの胸のあたりをぎゅっと掴んだ。
「お……っ」
 ゴクリと唾を飲み下し、青年をキッと見据えて続ける。

「おお、オレなんて喰っても、旨くなんてねぇからなっ……!!」

 沈黙。
「…………」
 途方もない脱力感に青年の白いしっぽが下がっていくのにも気づかぬまま、カイジは蒼白な顔で叫んだ。

「同居人襲って喰おうとするとかっ……! お前どんだけ食い意地張ってんだよっ……!!」

 すぐ傍でわぁわぁ喚かれ、青年は煩わしげな舌打ちをひとつ。
「……誰があんたみてぇな、筋張ってて栄養状態も悪そうな人間なんか、喰うかよ」
 その呟きは、完全に青年の意図を誤解したままひとり騒ぐカイジにあっさりスルーされ、
「そ、そうだっ……! ほらっ……! お前の好きなやつ、買ってきたからっ……!!」
 思い出したかのように床のコンビニ袋をガサゴソとあさると、カイジはすっかり冷めてしまったチキンを青年の前にずいと突き出した。

「オレなんかより、こっちのがずっと旨そうだろっ……! 待ってろっ、今あっため直してやるからなっ……!!」
 そう言い置いて、カイジはそそくさと逃げるようにキッチンへと引っ込む。

 嵐が去ったあとのような寝室にひとり取り残された青年は、盛大なため息とともにバリバリと頭を掻きむしると、およそ神さまらしいとは言えないような凶相で、台所の方を睨みつけた。

「……確かに、ある意味じゃチキンなんかより、あんたのがよっぽど旨そうなんだけど」

 もう、いい加減喰っちまうおうか……? などと、冗談とも本気ともつかぬような不穏なひとりごとは、台所でレンジにチキンをふたつ投げ込んでいるカイジには、もちろん届くはずもなかった。






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