ワンダーラスト



 玄関の扉を開けると、あたたかい空気がひんやりとした部屋の中に流れ込んできて、まるで玄関先だけべつの世界にトリップしてしまったかのような錯覚に、カイジは一瞬息を詰める。
 そこに立っていた男は、数ヶ月前と変わらぬ皮肉げな笑みを浮かべ、

「ーーカイジさん、ひさしぶり」

 と、呟くように言った。


 その声に呼ばれると、カイジは己の名前が、あるはずのない質量を帯びる気がした。
 しんと静かな重みは鼓膜にのしかかり、脳の端々まで響いて揺らす。
 決して、不快ではない重み。ちょっとクラリとしたのは、春の夜の空気が想像以上にあたたかかったからで、断じて男のせいではないーーと、カイジは己に言い聞かせた。


 男は、体中に春の空気を纏いつかせていた。
 それは開けっ放しの扉から流れ込んでくる外気とは、明らかに違う。
 甘苦いタバコの香りと、ほんのすこしの埃っぽさ、青臭いような草と土の匂い。
 生きて、歩いてここまでやって来た証のような、生々しさを感じさせる春の空気に鼻腔をくすぐられ、カイジは居心地悪そうに、ちょっとだけうつむいた。


 深夜のコンビニと、薄暗いパチンコ屋と、安普請のアパートを行き来するだけの季節感に乏しい生活を送るカイジにとって、不定期な男の訪れは、季節の変化を実感させられる機会でもあった。

 年がら年中ジメジメと薄暗いような玄関の扉を開けると、男の纏う空気の匂いの変化で、今まで気にも留めなかった季節の移り変わりにハッとさせられる。
 その瞬間、カイジは部屋の中から自分の体のすみずみまで、ざあっと音をたてて季節の色に染められていく気がするのだった。

 
 男はいつも、季節を連れてカイジの部屋にやって来る。
 春の使いーーという形容は笑えるほどそぐわない男だけれど、夜には鳴かない鶯や、大して興味もない花なんかよりも、カイジにとってはよっぽど春を感じさせるのが、この男の訪れであることは確かだった。

 
 けれど、この季節、男に会うのがカイジは苦手だった。

 嫌、というわけではない。むしろ、嫌ではないから、『苦手』なのだ。


 男の連れてきた春の空気に体中を染められると、どうにも、ソワソワと落ち着かない気分になってしまうのだ。

 長い冬が終わり、にわかに生命が活気づく季節。
 自堕落な生活を送っているカイジだって、どこかへ出かけずにはいられないような、なにかを変えてみたいような、浮き立った気分にさせられる。それが春という季節だ。

 カイジはそんな気分がこの季節限定の、一時的なものだと知っているし、なにかを変えてみたい、と思ったって、結局なにも変えられないってことだって、嫌というほどわかっている。
 そして短い春が終わると、なにをしたわけでもないのにーーいや、なにもしていないからこそ、原因不明のグッタリとした疲労感に苛まれることになるのである。

 だから、この季節はできるだけ冷静に、いつもどおり過ごしていたいのだが、男に会うと、心はあっさりと意思を裏切って、外へ出たい、どこか遠くに行きたいと叫びだす。
 男が常に気ままな放浪の身であるということも、カイジの心を揺さぶる大きな要因であろう。男が連れてくる空気は、旅先の空気でもある。
 よそよそしく新鮮なそれが、春の空気と混ざり合って、ちいさな部屋に閉じこもってはいられないような気分にさせる。

 こんな時間から、誰も知らない街に遠出したい。後先なんて考えず、どこか遠くへ旅に出てみたいーーというような、普段は心の奥底で眠っていて滅多に顔を出さないはずの、なけなしの旅心がうずうずと疼き、まったく、落ち着かないことこの上ない。
 だからカイジはこの季節、男に会うのが苦手なのだった。


「どうしたの」

 仏頂面のカイジを、男は不思議そうに覗き込んで問いかける。
 前に会ったのは冬だった。そのときよりも伸びた前髪が、切れ長の目にかかっている。
 すこし痩せたように見えるのは、薄着になったせいだろうか。
 視覚からも感じられる季節の変化に、うずうずする心がおさまらず、カイジは諦めたように、大きくため息をついた。

「メシ、食いに行くぞ」

 ボソリと言うと、男は意外そうに眉を上げる。

「ーーこんな時間から? 開いてる店、ないと思うけど」
「いいんだよ」

 本当はただ、とにかく外へ出て歩きたい気分なのだから。

 カイジは玄関に男を待たせたまま、部屋に引っ込んだ。
 寝癖だらけの髪を整え、草臥れた寝間着を脱ぎ、洗いざらしのシャツに袖を通してジーンズに足を通す。

 男が齎らした春の気配に、易々と外へ誘い出されてしまうのが癪ではあったが、だからといって、いてもたってもいられないような浮ついた気分に逆らえるはずもなく。
 履き古したスニーカーの踵を潰して玄関の外に出ると、霞がかった丸い月が夜空にぼんやりと浮かび、室内の肌寒さが嘘のようにあたたかい夜気が体を包んだ。
 やわらかに明るい朧月夜だ。

 鳩尾がぎゅっと引き絞られるような、甘ずっぱい春の匂いを思い切り吸い込むと、腑に落ちないような顔をしている男に向かって「行くぞ」と声をかけ、カイジは春の夜を歩き出した。






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