春の雨 短文

 雨に煙る景色の向こう、静かに佇むアパートの姿を見つけ、カイジはホッと息をついた。

 出先で俄雨に降られたのだ。やわらかく冷たい春の雨は、傘を持たないカイジと連れの男を、瞬く間に濡れ鼠にした。

 息を切らしながら走り、まろぶようにして階段を駆け上がる。
 共用廊下でようやく立ち止まり、弾む息を整えた。

 なんとか屋根の下に辿り着くことができたが、一張羅のスカジャンがずぶ濡れになってしまった。
 舌打ちして、上着についた水滴を払う。
 汗と雨の混ざった滴が、ひっきりなしに額から流れ落ちていく。
 束になり、雫を滴らせる髪。こういうとき、長い髪は鬱陶しい。

 すこし遅れて階段をのぼってきた男の方を見遣ると、やはり頭から水を被ったような有様だった。
 ただ、男は雨に降られることに慣れているのか、すこしも焦った様子がなく、悠々とした足取りでカイジの側に立った。

 朝から穏やかだった空模様の急変は、テレビの気象予報士ですら予想できなかったらしい。
『降水確率0%』の予報に珍しく心浮き立ち、“桜を見に行こう”などと、柄にもないことを提案してしまったのが悪かったのか。

 結局、目的を果たす前に雨に降られ、こんな目に遭っている。
 雪や槍が降らなかっただけ、まだマシだったと言うべきだろうか。誘ったのが毎度お馴染みのパチンコや競馬だったなら、こんなことにはならなかったのかもしれない。
 くだらないことを考えてうんざりしながら、カイジは部屋に向かって歩く。


 今日は4月にしては寒い日で、ポケットから鍵を取り出しながら、カイジは大きなくしゃみをした。
「さみ……」
 思わず口からこぼれ出る。
 犬みたいに、頭と体をブルブル揺すって水を払い飛ばせれば楽なのに。
 身を縮こまらせ、鍵穴に鍵を挿しながら、ふと、カイジは隣に立つ男に目を向けた。

 しとどに濡れた白い前髪が、男の目許を隠している。
 色素のうすい無骨な手が、無造作にそれを掻き上げると、切れ長の目が露わになった。
 そしてそのまま、短い睫毛を軽く伏せ、男はふっと息をつく。

 濡れた肌と、その仕草。
 白い頬に、首筋に、絡みついている細い髪。
 それが、シャワーを浴びたあとに見せる男の様子と重なって、カイジは固まってしまった。

 鋭い視線が、流れるようにカイジを捉える。
「ーーシャワー……」
 低い声が発した単語に、カイジは文字通り飛び上がった。

 ろくでもない連想を悟られでもしたのかと、内心ひどく動揺するカイジ。
 異様なほどの取り乱しように、男は細い眉を上げる。
「あんた、寒そうにしてたから。先にシャワー浴びる? って、訊こうとしたんだけど」
 それから、意味深な笑みに目を細め、こころもち首を傾げるようにしてカイジに顔を寄せると、耳許で吹き込むようにして呟いた。

「……ふたりで浴びようか。ね、カイジさん」

 取り落とした鍵が床で跳ねる音が、静かな廊下にちいさく響いた。





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