無題・1 遊郭パラレル 何でも許せる人向け



 暮六つの鐘が、冥色の空に高く鳴り響く。
 水汲みを終えた井戸から顔を上げ、開司は昏い空を睨んだ。

 表通りは騒がしい。清掻の三味線、人の声と足音、下足札の鳴る音。
 忙しなく人々が行き交う大門に区切られた一画。此処は、常世から隔離された別天地だ。

 開司が裏口から戻ると、今夜の客を迎え入れる準備で大広間は騒然としていた。
 水桶を台所へ運ぶ途中、割腹の良い男に肩を叩かれた。番頭を任されているその男は、人の好さそうな笑顔で開司に囁く。
「……明日、開く。来るなら来なさい。この間の負け分を、取り戻せるかも……」
 最後にもう一度、激励するように開司の肩を叩き、男は去っていった。眉ひとつ動かさなかった開司は、男が離れていって初めて、ぎり、と音が鳴るほど歯噛みした。
 男に触れられた肩を払いたい気分だったが、水桶が邪魔でできない。
 開司は水桶を担ぎ直すと、台所に足を向けた。
 
「ただ水を汲んでくるのに、どれだけ時間を食ってやがるんだい。全く、使えない男だよ」
 台所を仕切る年増女が、水を運んできた開司を横目で睨んで吐き捨てる。
 このような小言にもとうに慣れきっている開司は、右から左へ聞き流しながら踵を返した。

 この色街で五本の指に入るこの遊郭では、雑用は掃いて捨てるほどある。開司のような下働きの若衆は、毎日休む暇もないほど働かされた。
 遊女に絡みつかれながら二階の部屋へ向かう呉服屋の若旦那に、番頭がお愛想を言っている。
 その側で、大籬に並ぶあの妓を出せと騒ぐ一見客を、中郎が賺すように断っている。
 賑々しい見世の様子を見るともなしに眺めながら、開司が漏らした小さな溜息は、誰にも聞かれることなく空気に溶け消えていった。
 
 この街では昼と夜が逆転している。
 昼間はひっそりと眠り、夜になればやおら起き出してぞろりぞろりと蠢く。人の欲望を糧にして。
 得体の知れない怪物のようなこの街にやってきて早三年、開司は未だ慣れることがなかった。

 むせ返るような香の匂い、聞かずとも勝手に耳に飛び込んでくる嬌声、目が眩むほど鮮やかな灯と着物の色彩。
 それらすべてが、自分とは遠く隔たれた世界のことのように思われてならなかった。
 絢爛な花街の裏側で犇くのは、腐敗臭が漂うほどの醜悪さ。その醜さを白粉を塗りたくり、豪奢な飾りを身に纏って上辺だけの言葉で飾り、覆い隠している。そういう街だ。

 ここは巨大な檻のようなものだと開司は思う。
 逃げ出すことが許されないのは遊女に限った話ではない。廓で働く男もまた、何某かの理由でこの街に縛られている者が多かった。

 大概が、博奕で調子に乗って羽目を外し、首が回らなくなった末の年季奉公だ。
 開司もまたその例に漏れず、とある博奕で拵えた借金を返すためにここで働かされている。
 しかもその額は、地道に下働きを続けていては一生返しきれないような大金だった。
 ここでの生活に馴染んでいる者も多いが、開司には到底耐えられるものではなかった。だから自由を得るためなら、どんな危ない橋だって渡る覚悟を決めていた。
 先刻、番頭に囁かれた言葉を反芻し、開司は台の物を運ぶ手に力を込める。吊り上がった大きな目が、ぎらりと鋭く光った。



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