二月 過去拍手お礼



「お前見てると、なんか無性に、泣きたくなることがある」

 両目からきらきらとした雫をこぼしながら、カイジはそう言ってアカギを睨むように見据えた。
 まだ寒い二月の終わりの、明るい昼間のことだった。


 アカギを見ていると、恋とか愛とか、普段アカギに対して抱いているそういったものとはまったくべつのところで、息もできないくらい胸が苦しくてたまらなくなる瞬間が、カイジにはあった。

 その感情がいったいなんなのか、どこからくるものなのか、カイジにはさっぱりわからない。
 そんな正体不明の気持ちを言葉で説明するのはとても難しいけれども、たとえて言うなら、空気の澄んだとても寒い朝、外に出て息を吸うと自然と涙がにじんでくる、あの感覚にすこしだけ似ている気がした。

 アカギの透き通った生き方が、空気を通して体内に入ってくるようで、そばで呼吸をしていると、心がさざ波をたてるようにざわざわする。
 誰にも手の届かない場所に、この男はひとりでスッと立っていて、カイジはそれをただじっと見つめている。
 空の遥か高くを飛ぶ鳥を仰ぐときの、眩しいような寂しいような、そういう感情で胸がいっぱいになり、溢れて零れてしまうのだ。


 本人ですら形容しがたいそんな感情を、泣きながら説明なんかできるはずもなく、カイジはただ、唇を噛んで濡れた顔を手のひらでぬぐう。
 頬を伝う雫は熱い。アカギは風に吹かれながら、涙を流すカイジをただ眺めている。

 三日ほどの滞在を終え、自分のもとを去る恋人の前で、『寂しい』などという理由でさめざめ泣いてみせるほど、カイジは女々しくも健気でもない。
 それはアカギもよくわかっているはずだが、だからといって、いきなり泣き出した恋人の、涙の理由など理解できようはずもない。

 怪訝そうに細い眉を寄せ、アカギはしばし、呆れた顔をしてそこに立っていた。
 それからなにを思ったか、やにわに一歩、カイジの方へと近づいてきた。


 熱を持った右側のまぶたをひんやりとした指でなぞられて、カイジは反射的に目を瞑る。
 すると、泣きたくなるような気配がさらに近づいてきて、まぶたの上に指ではない、やわらかく乾いたものが、そっと触れた。

「……止まった?」
 声の振動がまぶたを震わす距離で、アカギが尋ねてくる。
 じっと様子を窺うようなその声を聞いていると、ゆっくりと心がほどけていくような気がして、カイジは鼻をすすり、しゃくりあげるように息をした。

「……なぁ。お前、生きろよ」
 ほどけた心で言葉を編むように、ていねいに、力強く、カイジは言う。
 問いの答えにすらなっていない、唐突な言葉。

 いつもなら、『外でこんなことするな』と慌てふためいて怒るはずの恋人に、ますますわけがわからない、と言いたげな顔で、アカギは肩をすくめる。
 カイジはもう一度、生きろ、と言って、涙で濡れた顔のまま笑った。

 カイジ自身もうまく捉えられない感情の波のなかで、おそらくこれが、言葉にできるたったひとつのことだった。

 生きてるかぎり、お前をずっと見つめてるよ。涙が出ても。
 たったひとりで高いところにいるお前にとってはどうでもいいことかもしれないけれど、それでもオレはずっと、お前を見てるから。


 遠くから踏切の音が聞こえる。もうすぐ、別れの電車がやってくるのだ。
 ふたりの間に吹く風は、どことなく春めいた匂いを含みはじめていた。






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