AM3:00【その3】


「カイジさぁん、聞いてくださいよぉ〜! この間カノジョが〜……、」

 隣のレジにいるカイジにいつもの調子で話しかけた佐原は、無言のまま横目でギロリと睨めつけられ、おや、と瞬いた。
 どうやら、ずいぶんとご機嫌斜めらしい。
 返事がないことがなによりの証拠だ。いつものカイジなら、ぶっきらぼうでも『なんだよ』などと反応を返してくれるはずである。
 そこそこカンの鋭い佐原には、今のやりとりだけでもう、カイジの虫の居所が良くないことがわかってしまったのである。

 だが、それがわかったからと言って、カイジ如きに要らぬ気を遣う佐原ではなく、
「機嫌悪いっすねぇ〜どぉしたんすか? 白髪の彼氏さんと喧嘩でも……」
 余計なことをペラペラ喋り、みるみるうちに凶悪な顔になったカイジに大きく舌打ちされた。

 図星か、と、口には出さずに佐原は思う。
 佐原がカイジの感情を読み取るのに長けているのは、このようにカイジの機微が意外なほど表に出やすいためでもあった。
 クリスマスが近づき、全員サンタ帽を被って接客しろという店長からのお達しで、佐原もカイジも渋々あの赤い帽子を被って店に立っているのだが、浮かれた身形とはミスマッチなカイジのぶすくれた表情が、『やらされてる感』をさらに際立たせていて、佐原は笑いを噛み殺すのに必死だった。

 犬すら喰わない痴話喧嘩だ。自分が喰ったら腹を下しかねないと、佐原はそれ以上つっこんでカイジに尋ねるようなことはせず、口を噤んでレジ点検を始めたのだった。




 数分後。
「いらっしゃいまーー」
 ドアチャイムに反応して顔をあげた佐原は、店に入ってきた客の姿を見て、挨拶の途中で固まった。
 思わず隣のレジにいるカイジに目を遣る。案の定、さっきの数倍は険しい表情になっていた。

 接客業にあるまじき顔つきをした店員のレジに、その客はつかつかと近づいていく。
「カイジさん」
 カウンター越しに話しかける客の男ーー件の白髪の彼氏も、カイジに負けず劣らずの仏頂面だ。
 どうやら、相当こじれているらしい。温度の低いポーカーフェイスが、こんなに不愉快そうに歪んでいるのを佐原は初めて見た。
 男の発する空気が、ピリピリと張りつめているのを肌で感じる。普通の感覚を持つ人間なら、見ているだけで尻込みしてしまうほどの迫力であるが、流石に深い仲になるだけはあって、カイジは眉ひとつ動かさずダンマリを決め込んでいる。
「……おい」
 男の声が低くなる。自分の存在などお構いなしの、剣呑な雰囲気に佐原は逃げ出したくなった。
 ……なんでオレいっつもこいつらの巻き添え食うんだよいい加減にしてくれよ、バイト先で喧嘩の続きすんな家でやれ家で。
 などと、吐き捨てられたらどんなにいいことか。
 頭痛がしてきて、佐原は無言で天を仰ぐ。

 重苦しい沈黙の中、先に動いたのは白髪の男の方だった。
 カイジが断固として自分をシカトするつもりだとわかると、チッと舌打ちし、苛立たしげに踵を返してレジから離れる。
 しわぶきひとつできないくらい緊張していた空気がようやく緩み、佐原は詰めていた息をハーッと吐き出す。

 首をポキポキ慣らしながら、未だ太い眉を寄せてムッツリしているカイジを、傍迷惑そうに横目で見た。
 あんたらの事情なんて知りたくもねえけど、カイジさん、早いとこ謝っちゃったほうがいいっすよ、主にオレのために。
 そんな思いを込めて視線を送るが、当然、カイジは気づく様子もなく。


 そうこうしている間に、遠ざかっていた足音がまた近づいてきて、佐原は内心飛び上がる。
 チラチラと怖いもの見たさのように足音の主の姿を確認していたが、その男がカイジではなく自分の方へまっすぐ向かってきているのを知って、「げっ」とちいさく漏らしてしまった。

 レジの前に立ち止まられ、佐原は冷や汗をかく。
「……らっしゃーせ〜……」
 ヤバい……すげぇ迷惑そうにしてたのバレてた……?
 などと思いながらも、とりあえず客への挨拶を口にすると、男は黙ったまま、カウンターの上になにかを置いた。

 視線を下ろし、佐原の目が点になる。
「……え……っと……」
 どうリアクションすればいいのかわからず、嫌な汗が全身の毛穴からどっと噴き出してくる。
「会計」
「! あ、あ〜っ! そ……っすよねお会計っすよね、ありがとうございま〜す!!」
 男に促され、焦ったように動き出す佐原。
 尋常じゃないその様子を見て取って、不審そうに隣のレジを覗き込んだカイジの目が、一瞬のうちに限界まで見開かれた。

『ごくうす 0.01ミリ』
 カウンターに置かれたちいさな箱には、そう大きく印字されていた。

 口を大きく開けたまま、カイジは耳まで真っ赤になる。
「つ……っ……」
 羞恥と怒りにわなわなと震えながら、カイジはキッと男を睨みつけ、店中に響き渡るような声で怒鳴りつけた。

「使った試しねぇだろっこんなもんっ……!!」

 今この状況で、ツッこむべきところは絶対にそこじゃないはずなのだが、涙目でぜえぜえと息をするカイジは、きっと頭に血がのぼって混乱していたのだろう。
 しばらくすると、自分がとんでもないことを大声で叫んだことに思い至り、カイジはサーッと青ざめて佐原の方を縋るように見る。
 しかし佐原も、カイジに負けず劣らず蒼白な顔をしていた。
(今年一、知りたくない情報だった……)
 カイジによって齎された完全なるムダ知識を、どうにか記憶から抹消しようと佐原が遠い目で素数を数えているうち、白髪の男はしれっとした顔で
「あ……間違えた」
 と呟き、佐原を見た。
「コレ返しといて。要らないから」
 とどめを刺すようにそう言って、カウンターの上に箱を置いたまま、頭を抱えてぐねぐねしている恋人を完全に無視し、男は悠々と店の外へ出ていってしまった。


 ガキの喧嘩じゃねえんだから……
 魂が抜けてしまったかのように立ち尽くしているカイジの姿を見つめ、佐原は大きくため息をつく。
 白髪の男が、自分を無視するカイジへの意趣返しとしてこんなことをしたのは明白で、こんな中坊みたいな嫌がらせをあのクールそうな男がするなんて、ちょっと意外すぎて言葉も出ない。
 ……あの人にこういうことさせるカイジさんって、実はけっこうスゴいのかも。ちっとも羨ましくねえけど。
「はいっ、カイジさん切り換え切り換え! 腑抜けてないでちゃんと仕事してくださいよ〜!」
 自分に言い聞かせるかのように声をあげ、佐原は手汗でびっしょり濡れた手をズボンで拭うと、カウンターに置かれた箱を乱暴に引っ掴んで売り場に戻したのだった。





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