最悪の日 カイジさんが乙女
今日は、朝から最悪だった。
意気揚々と出かけた競馬とパチンコで、近年稀に見る大敗を喫した。涙すら出ないほど完膚なきまでに叩きのめされ、消沈してトボトボ歩いてるとこを、チャラそうな若い連中に絡まれた。
相手は四人。狭い道いっぱいに広がって、大声で下品な話をして笑いながら歩いていて、ささくれた気分を逆撫でされた。
すれ違いざま舌打ちしたら、どうやら相手を怒らせちまったらしい。
胸ぐらを掴まれ凄まれたから、相手の顔面に頭突きをお見舞いしてやった。そいつは鼻血を噴きながらよろけてオレを放したけれど、すぐさま他のヤツに殴りかかられた。
オレも破れかぶれになっていて、殴り合いにでもなればすこしは鬱憤が晴れるかも、なんて単純な思考回路でわざと連中を煽った部分があった。
どう考えてもこの人数相手に太刀打ちできるはずもないってわかりきってたけど、もうどうにでもなれって気分だった。
いくらなんでも殺されはしないだろうし、オレはすぐ近くに交番があることを知っていた。おそらく相手も。
聞きたくなくとも耳に入ってきた下品な会話の内容から、連中が学生だってことはわかっていた。
金やら緑やらの奇抜な髪色こそ目立つが、身形も案外普通だ。
カタギであることはまず間違いなかった。ボコられたとしても、そんなに酷いことにはならないだろう。
ヤケクソになっている割に、そこまで計算づくで相手に喧嘩を売る自分が臆病で情けなくて、相手を殴りながら募る苛立ちにオレは吠えた。
殴る拳と殴られる体に走る痛みが、ムシャクシャした気持ちをすこしずつ晴らしていくように感じた。
やはりというか、相手はまったく喧嘩慣れしてなくて、人数差の割にそこそこ闘えたほうだとは思うけど、やっぱり四人相手じゃ勝ち目がなかった。
ボディに一発、重いのを食らって気を失いかける。
さすがによろけて地面に倒れると、一人がオレに馬乗りになってきた。
両の鼻から血を流すそいつの顔が可笑しくて笑ったが、きっと相手の目に映る自分はもっとひでぇ面してんだろうな。
オレの笑いが癪に触ったのか、血走った細い目が怒りに見開かれる。
肩で息をしながら男が拳を振り上げる動作がスローモーションのように見える。あ、ボコられる、なんて他人事のように思っていると、ふっと相手の姿が消えた。
腹を圧迫していた重みも消え、怪訝に思って首を持ち上げると、オレに馬乗りになっていた男がなぜか地面に転がって芋虫のようにもがいていた。
なにが起こったかわからず呆然としていると、べつの一人が罵声を浴びせながらオレの方へ突っ込んできた。しかし憎しみに燃える相手の瞳はオレを見ておらず、その視線を辿ってオレは息を呑んだ。
オレの傍に、音もなく、白い男が立っていた。
ーーいつの間に。どうして、ここに。
そんな疑問を差し挟む隙もなく、白い男は向かってくる相手の拳を軽々と避け、勢い余ってつんのめった背中を思い切り蹴りつけた。
勢いよく吹っ飛んだその男は、地面の上で蹲る仲間の上に積み重なるようにして倒れた。潰れた呻き声があがる。
マンガか映画みたいに出来すぎたその光景をオレが口を開けて眺めている隙に、白い男の力量を見て取ったのだろう、悲鳴のような声をあげながら連中は尻尾を巻いて逃げ去ってしまった。
急に静けさが訪れた。地面に寝転んだまま傍を見上げると、切るように鋭い視線とぶつかる。
なにか言わなきゃいけない気になって、さっき浮かんだ疑問を口にする。
「ーーど、うして、ここに……」
「それはこっちの台詞。あんた、こんなとこでなにしてんだ」
抑揚のない声。だが、どこか呆れ混じりのように聞こえて、オレはぐっと言葉に詰まる。
「ちょっと、変なのに絡まれてーー」
絡まれる火種はやさぐれた自分が起こしたようなものだったが、それは黙っておくことにする。
「あの人数と正面切ってやりあうなんて、あんたらしくもねぇ。まぁ……あんたのことだ、いざとなったときの逃げ道は用意してあったんだろうけど」
淡々と言われ、オレは項垂れる。
そうだ。オレはぜんぜん武闘派なんかじゃねぇし、こんなの、らしくない。おかげで今、ボコボコにされてこのザマだ。
それに比べて、コイツのーーアカギの闘う姿のなんと堂に入っていたことか。
博奕はもちろん、喧嘩でも負け知らずだって聞いたことあるけど、本当なんだな。
傷の痛みも忘れて、思わず見惚れちまった。はっきり言って、惚れ直した。
自分のピンチに好きなヤツが颯爽と現れて、鮮やかに敵を蹴散らしてくれるなんて、少女マンガの主人公かオレは。惚れ直すだろこんなもん。
……まぁ、オレもコイツも男だし、ちょっと気が合って偶に酒呑むくらいの仲だから、そんなこと口が裂けても言えねぇんだけど。
自嘲気味に笑うオレの思考なんて、この男は知る由もないのだろう。黙ったまま白い手を差し伸べられ、不覚にも泣きたい気分がぶり返してきた。
やっぱり、今日は最悪だ。よりによってコイツに、こんなボロボロの姿を見られるなんて。
鼻の奥がツンとする。なけなしの男の矜恃もズタズタだ。
ああ、でも。
それでも、会えて嬉しいって気持ちが心拍を逸らせて、新しい涙がこみ上げてくる。
伸ばされた手を馬鹿みたいに見つめるオレに痺れを切らしたのか、細い眉を寄せた男がオレの右腕を掴んだ。
無造作に掴まれた部分が、勝手に熱を持ち始める。
見下ろしてくる切れ長の瞳は酷薄そうに見えるけれど、ちゃんとオレを立たせようとしてくれてる。
見た目を裏切るコイツの人間らしさというか、やさしさみたいなのを感じて、オレは自分でもハッキリとわかるくらい上気した。
頭の中が、アカギのことだけでいっぱいになる。
「すきだ」
本当に思いがけず、心の欠片がぽろりと零れ落ちるみたいに、オレはそう口走っていた。
ごくちいさな声だった。本当に自分がそう言ったのかどうか、耳を疑うくらいに。
だけど、いつも感情の起伏に乏しい男が、初めて見せる面喰らったような顔を見て、頭から冷や水を浴びせかけられたような気分になった。
「ぁ……、悪ぃっオレっ……、」
意味もなく謝りながら、しどろもどろになって言い訳を探す。
男の顔が見られない。真っ赤に腫れた拳をぎゅっと握りしめた。
「……っと、オレ酔っ払ってて……なんか変なこと言ったよな……? 明日になったら忘れてるから多分っ……! いや絶対っ……!!」
不自然なほど捲し立てる声が小刻みに震える。おそらく、体も震えてるかもしれない。
酔っぱらってるなんて、こんなバレバレの嘘。コイツにはすぐ見抜かれちまうだろうけど、それでもオレはなにかを取り繕おうと必死だった。
顔を上げるのが怖い。うつむいたまま、呻くように言葉を絞り出す。
「だ……から、お前も、忘れてくれ……」
縋りつくような己の声に、また視界が歪んだ。
こんなこと、言うつもりなんてなかったのに。
本当に最悪だ……
唇を噛みしめて自分を呪う。コイツとの縁が切れてしまうことを、オレはいちばん恐れていた。だから、これから先もずっと、言うつもりなんてなかったのに……
強いショックで黙りこくっていると、ややあって、頭上から静かな声が降ってきた。
「そう……じゃあ、」
ずっと掴まれたままだった右腕をいきなり引かれ、危うくバランスを崩しかけたオレに、白い顔が近づいてきて、信じられないことをされた。
触れるはずのないものが。オレの唇に触れている。
その瞬間オレの頭は真っ白になり、思考のいっさいはどっかへ吹っ飛んでしまった。
完全にフリーズしているオレをよそに、唇を離した男はオレの顔を覗き込む。
それから、感情の読み取りにくいいつもの表情で、
「じゃあ……あんたこれも、明日になったら忘れちまってるんだろうな」
淡々とそう言って、オレの腕をあっさりと離した。
自分の身に起こったことへの理解が追いつかず、オレは涙の引っ込んだ目でひたすら瞬きを繰り返す。
なんだ? なにこれ? 夢?
間抜けな問いがいくつも頭に浮かんでは消えていき、ひたすらぼんやりと呆けているオレを置いて、男はさっさと踵を返した。
立ち去ろうと地面を踏む乾いた音に、ハッと我に返り慌てて立ち上がる。
「まっ……待てコラっ……!!」
目眩がするほどの痛みを訴える体をどうにか奮い立たせて、オレは男の背を追う。
気が遠くなりそうだ。オレが苦悶の呻きをあげても歩調を緩めないアカギの姿もどんどん遠くなる。
……待てっつってんだろ。
「あんた、さっきよりずいぶん元気じゃない」
ちらと振り向きざま、白い男は目を細めて揶揄う風に言う。
ふざけるな、誰が元気なもんかよ。あちこち死ぬほど痛てぇよ。特に心臓。
でも、オレは必死で足を動かして、近くて遠い背に思いきり手を伸ばす。
最悪の一日が、最悪で終わるかそうじゃなくなるかは、このあとのオレの踏ん張り次第だって、わかったから。
終
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