知恵の輪 アカカイ前提しげ→カイ 薄暗い



 知恵の輪に似ている、と思ったのだ。
 しげるが男女のまぐわいを初めて見たのは、数年前、夏の盛りの頃のことだった。
 宿のあてなく夜の街をふらついているところを、ある商売女に拾われた。その頃、持ち込まれる代打ちの依頼はどれも気乗りのしないものばかりで、断り続けていたしげるには収入源というものがなく、つまりは無一文の、薄汚いただのガキだった。
 しかし女は事情を知った上で、得体の知れないその子供に寝床を提供したのだ。経験上、見返りとして肉体関係を迫られるものとしげるは踏んだのだが、女はしげるに手を出さなかった。慈善事業のつもりか、あるいはちょっと頭の弱い女なのか。どちらだろうとしげるは考えたが、結果的にはそのどちらでもなかった。

 女の部屋へ転がり込んで数日が経った頃、白々と夜が明けようとする時分に、啜り泣くような女の声でしげるは眠りから覚めた。
 半開きのドアの隙間から、女の寝床のある隣室をそっと覗くと、女と見知らぬ男が床の上で交わっていた。
 そういう商売をする女なのだから別段驚きはしなかった。白粉の匂いが充満する女の部屋で、肌色の塊がひとつに溶けあおうとするように絡み、縺れ合っていた。
 上に乗っている小太りの男の獣じみた動きに合わせ、女の口から小刻みに嬌声が上がった。体位を変えたとき、女の顔がしげるの方を向いた。目が合った瞬間、女は男の体液でどろどろに汚れた唇を綻ばせ、笑った。このために女は自分を拾ったのだと、しげるはそのとき気がついた。人に見られることで快感を覚える、そういう趣味にまったく共感はできなかったが、そういう人間もいるのだと理解はできた。しげるが生き抜いてきた裏の世界には、性交を他人に見せつけて興奮するなんて児戯に等しいといえるほどの悪趣味を持つ者が五万といたからだ。快感に蕩けた目でしげるを見つめたまま、女は脂ぎった男の背に赤い爪を立て、悲鳴じみた声を長く上げて絶頂した。
 そのとき、しげるはふと、知恵の輪に似ている、と思ったのだ。複雑に絡まりあう腕や脚。汗にまみれたそれらは溶け合いそうで決して溶け合うことなく、幾度もかたちを変えながら蠢いていた。その様を金属製のパズルに準えるほど、しげるは赤の他人の性交に興奮もしなければ嫌悪も抱かなかった。なんの感情も動かぬまま、ただ冷めた目で二つの肉塊を傍観していた。




 その時のことを、しげるはなぜか思い出していた。
 薄暗がりの中、絡まりあう腕と脚。扉の隙間から覗くそれに既視感を覚えつつも、あの夏の出来事とはまったく異質なものであるとも感じていた。

 安普請のアパートのドアを開けた瞬間、目に入った家主のものではないスニーカー。部屋の奥から漏れる衣擦れと、啜り泣くような声。中で行われていることにおおよその予想がつき、しげるは部屋に上がった。寝室への扉を細く開けると、果たしてそこには、ひとつに溶け合おうとするふたつの肉塊があった。
 あの夏と違うのは、それらがしげるにとって赤の他人というわけではないということだ。素肌に絡まる長い黒髪。あの夏の日の女のような。しかしそれを振り乱すようにして喘いでいるのは、紛れもなくしげるのよく知る男だった。しげるより八つも歳上のその男が、むずかる赤子のような声をあげてベッドの上で身悶えていた。汗みずくの肌に張りつくその長い髪をかき上げ、より深く繋がろうと腰を押しつけるもうひとりの男。闇の中でも浮かび上がるように白いその肢体にも、しげるにはうんざりさるくらい見覚えがあった。
 その男もまた『赤木しげる』そのものであり、しげるの未来の姿のひとつであった。なぜその男としげるが同じ世界で出会すことになったのかは不明だが、ふたりを引き合わせる要因となったのはひとりの男だった。とある寒い夜、宿を取る金も行くあてもなく、公園の遊具の下で雨を凌いでいたしげるに、その男は声をかけてきたのだ。それからしげるは男を時折訪ねるようになったが、しげるが男に出会うずっと前から、もうひとりの赤木しげるは男との付き合いを続けていたようだった。ふたりでいるところに偶然しげるが鉢合わせたことが幾度かあったが、露骨に不快感を露わにするもうひとりの自分の傍で、大きな目を和らげて名前を呼びかけてくるその男。その男が今、もうひとりの自分と複雑に体を絡めあって甘い声をあげている。
 溶けた飴のようなその声はねっとりと鼓膜に絡みつき、全身の感覚をひどく鋭敏にしていくようだった。闇に慣れた網膜がくっきりと像を結ぶ。明度の違うふたつの肌が縺れあっている。どうにかしてひとつに混ざり合ってしまえる術を求めるかのように。もうひとりの赤木しげるが、男の耳許で何事かを囁く。快楽に溶けた大きな瞳がたちどころに潤んでいく。拒絶を示すように激しく首を横に振りながら、男は陽に灼けた脚を白い腰に絡めて強く引き寄せた。知恵の輪のようだと、無感動に傍観していたあの夏のことが嘘のように、しげるはふたつの塊を主体的に眺めていた。獣のようだと思った。男同士での性交を見るのは初めてだったが、不思議なほど嫌悪感はなかった。ただ、マグマのようにどろどろと湧き上がる感情で腹の底が熱くなった。
 いつの間にか、しげるはもうひとりの自分に己の姿を重ね合わせていた。たとえば自分がもうひとりの自分に取って替わったとしても、男は同じ反応を見せるだろうか。無機質な知恵の輪ではなく、生々しく汗に濡れたその腕や脚を、己の体に深く絡めてくるのだろうか。低く乾いたその声を、飴のようにとろかして子どものように高い嬌声をあげるのだろうか。
 知らず、しげるは薄い唇の隙間からちいさな息を漏らす。その微かな音に気づいたかのように、白い顔がしげるの方を向いた。赤みを帯びて鋭く光る双眸が、細い隙間から覗くしげるの目を捉える。その瞳に愉悦と優越の色が浮かぶのを、しげるはハッキリと見た。こうなることを予測して男との行為に及んだのだと、その表情が雄弁に物語っていた。下腹で渦巻く衝動のまま強く睨みつけると、もうひとりの赤木しげるは片頬をつり上げる笑みを寄越してから、なにも知らない男の唇を貪りつくしていった。
 古いベッドを軋ませながらさらに深く縺れ、爛れていく二頭の獣。ふと、下肢に異和を感じてしげるは目線を落とす。そこにはいつの間にか、激しく勃起した己の中心があった。焦げるような熱を持って腹の奥で重だるく蠢くものの正体が、紛れもなく興奮と嫉妬なのだと、しげるはそのとき初めて気づいたのだった。







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