昼間でも薄暗いその路地で、男は膝を抱えるようにして地面に座り込んでいた。
 日曜の真昼間だというのに、辛気くさいツラをして、冷たいコンクリートの上で項垂れている。
 その表情は窺えないが、背を丸め体を縮めて片隅に蹲っている姿が、なんとなく胎児を髣髴させた。

 ざり、と音をたてて男の前に立っても、男は微動だにしなかったが、
「カイジ」
 声をかけると、弾かれたように顔を上げた。

 薄暗い中でも、泣き腫らした目と濡れた頬が見て取れる。
 視線が合うと、男はきまり悪そうな顔でまた俯いた。
 今更そんな顔しなくても、お前の泣き顔なんざ見慣れてるよ。
 心中で呟いて、微苦笑する。

 なにがあった、とは聞かない。
 お互い、そんな質問を必要としていないからだ。

 その代わり、黙ってマルボロのパッケージを差し向けると、わずかな逡巡ののち、男は立ち上がった。
 俯いたまま頭を下げ、タバコを一本抜き取る男の姿を眺める。
 唇に挟み、ポケットから取り出した百円ライターで火を点け、やや目を細めて深く吸い込んだ。

 白い煙を吐き出す男の表情は、さっきより多少落ち着いているように見えた。
 目だけで促して路地の出口に足を向けると、のろのろと地面を踏む音が後ろからついてきた。

 路地から出た瞬間、耳に溢れかえる街の雑音。
 秋の昼間の白っぽい光が、そこら中に降り注いでいる。
 振り返って路地から出る男を見ると、眩しさに眩んだように顔をしかめ、目の上に手で庇を作っていた。
 
 暗い場所から光のあるところへ出た瞬間の、カイジの目が俺は好きだった。
 カイジはよく泣いている。今日みたいに、ひとりで薄暗い場所に座り込んで。
 塩辛い水を湛え、いつでも潤んでいるその瞳。
 けれどもそのおかげで、その大きな瞳に光が射すときらきらと輝くのだということを、いったいどれだけの人間が知っているのだろうか。

 光が入っても決して透けたりすることのない、どこまでも真っ黒なその瞳が、まるで雲母のような輝きを放つ。
 胎児のように路地の隅で蹲っていたカイジが、この世に生まれ落ちて初めて光を見るみたいに、大きな眼を眩しそうに細める。
 それが見たくて、俺はいつだって、お前を光の射すほうへ連れ出したんだ。

 陽の下で見る男の顔は、鼻の頭と頬が赤くなっていて、それを光にさらされて居心地悪そうにしていた。
 ふっと笑い、俺は口を開く。

「お前、いつも光が射すほうを見てろよ」

 なんとなく、こいつと会うのはこれが最後、という予感がした。
 だから、こいつにとっては唐突で、意味がわからないだろうけど、俺がこいつに望む唯一のことを口に出したのだ。

 俺がこんなことを言わなくとも、こいつならこの先どんな暗闇のどん底に突き落とされようとも、必ず光を見つけ、力強く這い上がっていくだろう。
 そのときは、大きな黒い瞳も、きっと今の比じゃないくらいに、まばゆく鮮烈に輝くのだろう。

 もうこの先、見ることの叶わないそれに思いを馳せながら、俺はゆっくりと歩きだす。
 後ろでカイジがなにか呟いたようだったが、雑踏の音に紛れてよく聞こえなかった。













「カイジ」

 乾いた低い声で名前を呼ばれて、思わず顔を上げた。
 薄暗いビルとビルの隙間の、じめじめしたコンクリートの上で、膝を抱えて丸まっているオレの前に、赤木さんが立っていた。

『神域の男』と呼ばれる人が、なぜこんなそぐわない場所にいるのか。
 そんな疑問を抱くけれど、言葉にはできなかった。
 泣いていたからだ。
 みっともなく声が震えてしまいそうで、ひとことも言葉を発せないオレに、赤木さんはすこし笑い、マルボロのパッケージを傾けてきた。

 なにがあった、なんて聞いてこない。
 いつものことだ。これがいつもの、この人のやさしさだった。少なくとも、オレはそう思っている。

 黙りこくったまま立ち上がり、頭を下げてマルボロを一本抜き取る。
 情けなく泣きじゃくっていた手前、体裁が悪くて赤木さんの顔をまともに見ることができない。
 さすがに無愛想すぎたかな、と赤木さんの反応をこわごわ窺うけれど、赤木さんはなにも気にしていない風に、オレの姿を眺めていた。

 なにもかも失ったと思っていたけれど、ポケットを探ると百円ライターが一個だけ、忘れられたように入っていた。
 タバコを咥えて火を点けると、嗅ぎ慣れているのに懐かしいマルボロの香りが鼻腔を擽る。
 いったい、何日ぶりに吸えたのだろう。肺いっぱいに深々と吸い込み、名残を惜しむようにゆっくりと吐く。
 体の細胞ひとつひとつに沁み渡るようで、途方もない充足感に浸っていると、赤木さんがオレの目をちらと見たあと、路地の出口へと歩いていった。
 ついてこいと促されている気がして、オレはタバコを咥えたまま、赤木さんの後をのろのろと歩いていく。

 路地から出たとたんに、溢れかえるたくさんの音に鼓膜を激しく揺さぶられた。
 くらくらと、長い立ちくらみのような感覚。
 眩しくて思わず顔をしかめ、目の上に手で庇を作るオレを、赤木さんは静かな眼差しで見つめていた。

 不思議な表情だ、と思う。
 赤木さんは時折、こんな風に穏やかにオレを見つめるときがある。
 凪のようなその瞳を見ると、オレの方は逆になんだか落ち着かなくなってきて、無駄に身じろぎを繰り返したりしてしまう。

 赤木さんはごく浅く笑うと、唐突にオレに向かって言った。

「お前、いつも光が射すほうを見てろよ」

 淡々としたその声の意図することがわからなくて、オレは眉を寄せた。

 眩しくて、なかなか目が開けられない。
 哀しくなるほど高く澄んだ空を背に立っている赤木さんを見ながら、オレはぼそりと呟いた。

「……ずっと、そうしてたつもりだけど」

 言われなくとも、オレはずっと、オレの光を見ている。
 赤木さん。
 あんたが唯一の希望だとか、そこまで思い詰めちゃいないけど、でも、確かにあんたはオレの光なんだ。

 今日みたいに最悪な日だって、あんたはいつも、オレを暗がりから連れ出してくれる。
 眩しすぎてなかなか直視できないけど、オレはあんたを見てるんだよ。
 初めて会ったときから、ずっと。
 

 タバコを咥えたままのオレの呟きは、くぐもって赤木さんには届かなかったようだ。
 それでいい。こんな、むず痒いことを伝える気なんて更々ない。

 でも。
 いつかは、あんたに言える日もくるのだろうか。
 こんな風に思っていた時期もあったんだって、苦笑いしながら懐かしむことのできる日が。
 それがいつのことになるかはわからないけれど、光の射すほうへもがいて足掻きながら進み続けて、いつか隣に立つことができれば、本当にそんなときが来るのかもしれない。

 この先、訪れるかもしれないその未来に思いを馳せながら、オレはゆっくりと歩きだす。
 オレが歩き始めたのを確認すると、赤木さんは背中越しにオレに手を振って、どこかへと歩き去っていく。
 いつもこうだ。もうすこし話ができたらと思うのに、赤木さんはオレに光だけ与えて、スッと姿を消してしまう。

 でも、赤木さんらしいといえばそうなのかもしれない。
 ふっと力の抜けた笑みがこぼれる。自分が久しく笑っていなかったことに、笑ってから気がついた。

 哀しくなるほど高く澄んだ秋晴れの空の下、白い背中はくっきりと映え、本当に光みたいに見えた。
 雑踏に紛れ、離れていくその背中を見届けてから、オレは力強く足を踏み出した。







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