こんな雨の夜は




 礫のようなものが天井を打つ音が、たん、たん、と断続的に響く。
 アカギの対面でビールを呑んでいたカイジが、弾かれたように顔を上げた。

「……雨だ」
 天井の方を見上げたまま、カイジは低い声でぼそりと呟く。

 空気の匂いを嗅いで耳を澄ませ、天候の変化を読み取る動物のようだ。
 そんなことを思いながらアカギがカイジを眺めていると、安普請の屋根を叩く音のテンポが徐々に速くなってゆき、あっという間に滝壺の中にでもいるかのような轟音へと変化した。

 降り出す少し前から雨の気配を察知していたアカギとは違い、カイジは今夜雨が降るなんて思いも寄らなかったようで、
「天気予報、あてになんねぇな」
 そうぼやいて立ち上がり、悲鳴のような音をたてて桟を軋ませながら、開けっ放しの窓を閉めた。

 窓が閉まると雨音はふたりの耳から遠のいたが、それでも、薄い天井や壁越しの豪雨の音は、腹の底を揺さぶられるかのようだ。
 しかめ面のカイジが、テレビの音量を上げる。

 訳知り顔のコメンテーターが、芸能スキャンダルについてあれこれ言っている。
 だが、普段なら耳につくはずのそんな雑音も、雨に閉ざされたこの部屋の中では、なぜか不思議なほど静謐に響いた。
 静けさが強調される、ふたりきりの部屋。湿り気を孕んだ空気。
 気温が下がってきて、タンクトップにハーフパンツ姿のカイジがすこし身震いした。

「……早く止まねぇかな」
 そう独りごち、窓の方を見ながらビールをあおるカイジに、
「どうして?」
 アカギが尋ねると、『思いがけないことを訊かれた』とでも言いたげに、大きな双眸が瞬いた。
「だって……、鬱陶しいだろ。煩いし、外出るの億劫になるし」
 ビールで濡れた唇を舐め、カイジはそう答える。雨音に掻き消されないよう、いつもより心もち大きな声で。

 そういえば、明日はバイトがあると言っていた。
 思い出しながら、アカギは頬杖をついてカイジを見た。
 
「オレはべつに、嫌いじゃない」
 アカギがぽつりと言うと、カイジはちょっとキョトンとしたあと、ようやくアカギが会話を続けているのだということに気がついたようで、怪訝そうに眉を寄せた。
「どうして?」
 さっきのアカギの台詞を、そっくりそのまま返す問いかけ。
 アカギはカイジの顔を見つめながら、口を開いた。

「こんな雨の夜は、……」

 そこまで言いかけて、口をつぐんだ。
 続く言葉の代わりに、ふっと息を吐くように笑みを漏らすと、カイジの眉間の皺がさらに深くなる。
「なんだよ、気色悪ぃ……」
 口汚い罵りは、意味深な笑みだけでなく、言いかけたことを途中で止めたことに対する文句なのだろう。
 しかし、アカギは続きを口にするつもりはなかった。


 こんな雨の夜は、カイジの声がいつもより大きくなる。
 安アパートの壁は薄く、いつもは声を抑えてしまうカイジだが、こんな激しい雨の夜には、隣にも聞こえないだろうと気が緩むのか、あるいは、雨音のせいで自分の声の大きさが正確にわからなくなるのか、のびのびと快感を享受して嬌声をあげるのである。

 本人はまったく自覚していないのだろうが、声の大きさにつられるようにして、カイジの反応も大胆に、淫らになる。
 普段は制御している分、リミッターが外れたかのように、アカギの手や舌の動きに敏感に反応し、あられもなくよがるカイジ。
 誰になんの気兼ねをすることもなく艶っぽい姿を晒す、これが本来の夜伽でのカイジの姿なのだ。
 そう思うと、アカギもいつにも増して昂ぶるばかりで、雨の降り続く間は、片時もカイジと肌を離したくないと思うほどなのである。


 ……そんな事実を話してしまったら、カイジが怒り狂うことは目に見えているし、それだけならまだしも、よりいっそう声を抑えるようになってしまうかもしれない。
 それはまったく面白くないので、アカギはただ唇を撓めたまま、卓袱台越しにカイジの方へと手を伸ばした。

 ビールの缶を口許へ運ぶ最中の手首を掴むと、カイジはじろりとアカギを睨む。
「……んだよ」
「寒いんでしょ」
 その一言だけで、自分がなにを誘っているか、カイジなら気づくだろうとアカギは確信していた。
 冷えたカイジの体には、手首をじわりと温める自分の体温が、心地よく感じられるであろうということも。

 案の定、カイジは呆れた顔をしたが、
「もっとマシな誘い方、できねぇの」
 と毒づきながらも、飲みかけのビールを卓袱台の上に置いた。

 それだけでもう、カイジが誘いに乗ったということがわかってしまって、アカギは低く喉を鳴らす。
 それから、激しい雨の夜だけに与えられた特権を存分に愉しむため、掴んだままの手首を、ゆるく引き寄せたのだった。






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