単純
見慣れた部屋が、水っぽく歪んでいる。
視界を潤ませている液体が汗なのか涙なのか、カイジにはわからなかったが、とりあえず瞬きをひとつすると、雫がつうと溢れて視界がクリアになった。
薄汚れた床。卓袱台の上に散らかったままの雑誌。
中途半端に閉じられたカーテンの隙間から射し込む光が、埃っぽい空間をきらきらと光らせている。
朝とも昼ともつかない時間の、気だるい風景。
くたびれた体をベッドの上に仰向けに投げ出したまま、カイジは深くため息をつく。
目線だけをゆっくりと巡らせ、ベッドの隣を見た。
ちょうど、そこに起き上がっている男が、タバコに火を点けるところだった。
仰向けに寝ているカイジの側からは男の後ろ姿しか見えないが、ライターの着火音が聞こえたのだ。
白い背中をぼんやり眺めていると、やがてふわりと煙のにおいが漂ってきた。
一服吸い、呼吸にあわせて吐く。あまりにも淡々としているその仕草を見るにつけ、カイジは次第に、呪わしいような気持ちになっていった。
平然としている男に対し、カイジは起き上がることすら億劫なほど消耗しきっていた。
その原因を作ったのは間違いなく男であるのに、何事もなかったかのようにあっけらかんとしているのが、カイジの気に触るのだ。
完全なる逆恨みである。そんなこと重々承知の上で、カイジは男の背を睨んだ。
猫のようにしなやかな白い背中に、猫が引っ掻いたような傷跡が幾筋も走っている。
むろん、猫の仕業などではない。カイジの爪痕である。
こんなにも必死に男の背にしがみついていたのだと、証拠をまざまざと見せつけられるようで、カイジはなおのこと暗澹たる気分になる。
どす黒い感情は恨めしげな視線へと形を変え、まっすぐに男の背へと注がれているのだった。
「……どうしたの。じっと見て」
ふいに男が振り返ってそう言ったので、カイジはビクリとする。
スッと切れ長な双眸が、カイジをじっと見ている。
こいつは背中にも目が付いてるんじゃないかと半ば本気で怪しみながら、カイジは淡い瞳を見返した。
ふたりの位置関係からそうならざるを得ないのだが、男に見下ろされている状態なのが、さらにカイジの心を捻じ曲げさせていく。
「お前、オレを単なる性欲処理の道具だとしか思ってねぇんだろ……」
呟いてから、嬌声以外のまともな話し声を発するのがひどく久しぶりであるということに、カイジは気づいた。
乾ききった喉からは、枯葉を踏むようなガサガサとした声しか出ない。
急に訪ねてきたと思ったら、挨拶以上の会話もないままベッドに引きずりこまれ、ただひたすら喘がされ。
時間や日付の感覚がなくなってしまうまで抱き潰されて、声やら汗やら涙やら精液やら、とにかく体の中が空っ穴になってしまうまで出し尽くした。
こんなことが、男と会うたび毎度繰り返されている。
カイジも成人男性であるから、雄の性欲がいかにストレートで本能むき出しのものであるか、よく理解してはいるのだが、それにしたってあまりにも度を超えていると、辟易しているのだ。
ふたりは正真正銘の恋人同士だというのに、これではまるでセックスフレンドではないかと、カイジはやさぐれた笑みに唇を歪める。
「所詮、か、体目当てで……」
虚しい気分のまま呟くうちに、なんだか涙がこみ上げてきた。
とんでもなく女々しいことを口走っているという自覚はあるし、こんなことで泣くなんて情けない、とも思う。
だけど、言葉も涙も理性では止められなくて、カイジは歯痒さに地団駄踏みたくなった。
せめて泣いていることがバレないよう、ぎこちなく寝返りを打って男に背を向けるけれど、涙を拭うことも鼻水を啜ることもできず、水分垂れ流しの顔はどんどん悲惨さを帯びていく。
それでも意地になって平静を装うカイジの背中を、男は黙ったまましばらく眺めていたようだったが、やがて灰皿にタバコを押し付ける音のあと、短いため息がカイジの耳に届いた。
「体目当てって……」
低い声に、カイジはぴくりと肩を揺らす。
卑猥で意地の悪い言葉責めや、熱っぽい呻き声以外の、まともな男の声をひさびさに聞いた気がして、無意識に全身を緊張させた。
そんなカイジを一笑するように、男がくつくつと喉を鳴らす。
「あんた……、ずいぶん、自分の体に自信あるんだな」
「!! な……ッ」
わざと恥ずかしい風に曲解され、カイジの頬にカッと血がのぼる。
腰の痛みも忘れて反射的にガバリと体を起こすと、男の顔が思ったよりも間近にあって、待ち構えていたように唇を掠め取られた。
閨で交わす、ねっとりと水っぽいキスではなく、やさしく啄むような口づけ。
一瞬の出来事にぽかんとしているカイジの顔を覗きこみ、男はいつもの皮肉げな笑みに唇を撓めた。
「体だけが目的なら、あんたを選んだりしねえよ」
揶揄うようにそう言って、男は立ち上がる。
タバコ買いに行ってくる、と言い残し、手早く服を身につけて、風のように出て行ってしまった。
ひとりベッドの上に残されたカイジは、しばらくの間、そのままの体勢でぼんやりとしていた。
「……あの野郎……恥ずかしげもなく……っ」
苦々しげに舌打ちするが、その顔は真っ赤に染まっている。
男の台詞に不覚にもドキリとして、あまつさえ、嬉しいなんて思ってしまった。
そんな、恋する乙女のように単純すぎる自身を諌めるように、カイジは濡れた顔を両手でゴシゴシと擦る。
そういえば、涙と鼻水でぐちゃぐちゃのこんな汚い顔にも、男は抵抗なくあたりまえのようにキスしてくれたなと、思い返してカイジはまた、ひとり赤くなった。
終
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