通い猫 過去拍手お礼




 黒い傘を開いて、黒い夜の中を歩く。
 真夏の午前四時だというのに、湿った闇が辺りを包み込んでいて、景色もなにも見えない。

 昼間に熱されたアスファルトに打ち付ける、大粒の雨。
 立ちのぼるむっとした匂いを嗅ぎながら、夜明けなどもう二度と訪れないような、ひたすら暗い帰路を歩いた。
 傘に叩きつける激しい雨音が、うつむくオレをさらに項垂れさせるが、足は勝手に動き、前へと進む。

 立ち止まってしまわないのは、ある確信があったから。
 今夜は、あいつがやってくる。そんな気がしたからだ。



 オレの部屋に猫が通ってくるようになったのは、一年前の夏だった。
 しなやかな体つきと鋭い目。白い毛並みを持つその大きな猫は、安普請の部屋のなにがお気に召したのか知らないが、初めて出会ったその夜から、ときおり顔を見せるようになった。

 オレのところへくると、猫は決まって飯をねだり、一頻りオレにじゃれついたあと、満足したらすやすや眠る。
 出されたものはなんでも黙って食べるし、狭いベッドに文句も言わない。
 本物の猫みたいにワガママじゃなくて、低い鳴き声も近所迷惑にならないくらい静かで耳触りがいいから、オレは猫が来るのを密かに楽しみにしているのだけれど、ただひとつ。
 ひとつだけ、厄介だと思う猫の習性があった。


 猫の訪れは本当に気まぐれだけれど、最近、わかったことがある。
 オレが泣きたいときに限って、猫はふらりと姿を見せるのだ。

 今だって、季節はずれの大雨に負けないくらい、ひどい気分だった。
 たった数時間の労働で疲れ果てて、こんなところで腐っている自分にほとほとうんざりして、大声で喚き散らしながら闇の中を走り出したい衝動に駆られるけれども、それすらままならないほどの物憂さが、黒い雲のように心の全体を覆っているのだった。

 まるで今の気分そのものの、悪天候。こういう日はオレも天気に引き摺られて、沈んじまうことが多い。
 そして、オレが沈むとなぜか、滅多に顔を見せないはずの猫が、決まって部屋の戸を叩くのだ。

 そうして部屋に上がり込んだ猫は、落ち込むオレを笑うでも揶揄うでもなく、ただ、隣でいつもどおり気ままに過ごして、あとを濁さず去っていく。
 雨の日を選ぶというよりも、オレが泣きたくなるときを嗅ぎ取って、猫はやってくるのだと思う。あの猫は、普通の猫じゃないから。雨宿りできる場所なら、他にいくらでもあるはずだし。

 そういう猫の習性を、ちょっと腹立たしく思う。ぺしゃんこにヘコんで、カッコ悪いとこばかり見られてる気がして。
 でも同時に、その習性に救われている自分もいる。
 下手な慰めや労りなんか口にせず、淡々と、ドライに、一定の距離を保ちながらも、寄り添ってくれているみたいで。



 きっと今夜も、あいつはやって来るだろう。
 そう思うから、疲れきった足だって動く。
 前へ。前へ。愚かなほどまっすぐに、暗い道を歩く。
 あいつの来る場所を目指して。



 アパートの前に着いたとき、あいつがオレに気づくより一瞬早く、オレは階段の下、闇に浮かぶような白い姿を見つけた。
 思わず、ため息が漏れる。苦々しさと嬉しさが、ちょうど半分ずつ混ざったような、ふわりと軽いため息。

 ほらな、やっぱり。
 いちばん側にいてほしくて、いちばん顔を見られたくないとき。
 そういうときを狙いすましたかのように、この猫は現れる。


 白い姿が、雨のせいでなく微かに滲んだけれど、溢れそうになるものを我慢して、オレは猫に近づく。
 目の前に立つと、猫は目を細めてオレを見た。

「こんばんは、カイジさん」

 漆黒の闇を背負ってスラリと立つ、その猫は赤木しげるという名前を持っている。






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