泳がせる 赤木さんが自覚する話 カイジさんがかわいそうで赤木さんが格好悪い


 丸二日かけて決着をつけた、長い代打ちのあと。
 興奮冷めやらぬ口調で『送らせてくれ』と懇願する依頼主の言葉を断って、赤木が夜道を歩いていると、薄暗い路地に差しかかったとき、あかぎさん、と呼びかける者があった。
「カイジ」
 赤木は立ち止まり、振り返って相手の名前を呼ぶ。
 静かに撓められた赤木の口許に、カイジもまた表情をやわらげ、ややぎこちない足取りで赤木のそばへとやってきた。

 ここで会ったのは、まったくの偶然だった。
 聞けばカイジは、バイトを終えて自宅アパートに帰る途中だったという。

「傘、持ってないんですか」
 尋ねられ、赤木は頷く。
「歩いてる途中で降り始めたんだよ」
 そう言って、霧のような雨を落とす夜空を見上げると、すこし逡巡するような間をおいて、カイジは自分がさしているビニール傘を赤木に向かって差し出す。
「これ、使ってください」
 筋張った手に握られている白い傘の柄と、カイジの顔を見比べて、赤木は眉をあげた。
「お前さんが濡れちまうだろ」
 呆れたような赤木の声に、カイジはかぶりを振る。
「いや、オレはべつに……たいした雨じゃねえし」
 そう言ったきり黙り込む、うつむきがちな目許を見ながら、赤木は頬を掻いた。
「……それじゃ、お前の傘に俺を入れてくれ。そうすりゃ、どっちも濡れねぇだろ」
 実のところ、若い頃から雨に濡れることに慣れている赤木にとって、これくらいの細雨なら、傘はむしろ邪魔なくらいなのだ。
 しかしカイジの厚意を無碍にするのも憚られ、赤木はふたりで傘に入る提案をしたのだが、それを聞いたカイジは一瞬、ひどく戸惑ったように視線を彷徨わせた。
「……そう、ですね……」
 ぼそりと呟いて、カイジはふたりの頭上に、傘をそっと傾ける。
 透明なビニールの生地にしとしと落ちる雨音が、街の雑音からすこしだけふたりを遠ざけた。



 静かな雨にしっとりと濡れていく風景を眺めながら、赤木はぽつりぽつりとカイジと会話を交わした。
 どうでもいいような世間話ばかりだったが、カイジは赤木の言葉にきちんと相槌を打ち、どんな質問にも生真面目に答える。
 馬鹿がつくほど丁寧な反応には、些かよそよそしささえ感じられる。
 赤木に対して、カイジは一事が万事、こんな調子だった。

 ふと、隣に目を遣って、赤木は反対側にあるカイジの肩が、雨に濡れていることに気づく。
 傘が異様なほど赤木側に傾けられているせいだ。
 だから濡れちまうだろって、と体を近寄せようとするが、カイジは赤木が近づいた分、なぜか体を引いてしまう。
 相合傘にしては中途半端に離れすぎている男の体から、固い緊張が伝わってきて、赤木は内心、肩を竦めた。


 多少ヒネてはいるが根は実直なこの若者に、どうやら自分は、たいそう好かれているらしい。
 赤木がそのことに気づいたのは、もうずっと前、男と出会って間もない頃のことであった。

『神域』と呼ばれるほどの博奕の才を持つ赤木に、ギャンブルジャンキーであるカイジが好意を抱くこと自体は、なんらおかしいことではない。
 赤木も、最初はただ、傍から注がれる純粋な憧れや尊敬のまなざしを、他の有象無象からのそれと同様に、軽くかわすように受け流していた。
 しかし、それから幾ばくもしないうちに、カイジが赤木を見る目は如実に変化していったのだ。

 じっと、まっすぐに見つめてくる視線に、湿りけを帯びた熱がこもるようになった。そのくせ、赤木と目が合うと、さりげない風を装ってすぐに逸らされる。
 カイジは誤魔化せていると思っているようだが、そういう視線を受けることに慣れている赤木には、その変化がすぐにわかってしまった。

 わかっていながら、赤木は気づかないふりをすることにした。
 カイジからの好意を、その恋を、泳がせておくことにしたのだ。

 赤木は元来、面倒なことが嫌いなたちだ。
 その種の好意はのらりくらりとかわし、ややこしいことになる前に相手の前から忽然と姿を消すのが常だったが、カイジに対してだけは違った。
 恋愛感情こそなかったが、赤木は伊藤開司という若者のことを、まあまあ気に入っていたのである。

 ときおりハッとさせられるような輝きを放つ瞳や、不器用な態度の奥に見え隠れするやさしさと芯の強さ。
 赤木が好ましく思うカイジの要素が、声をかけてやったり、浅く微笑んでやったりするだけで、激しく揺れ動くのが、赤木には手に取るようにわかった。
 それを面白く思ったから、赤木はカイジを突き放さずにいたのだった。

 今までどおり、つかず離れずの微妙な距離感を保ちながら、赤木はカイジの人間くさい反応を眺めていた。
 一歩引いたところから、他人事のように観察するその鋭い瞳が、深く澄んだ色をしていることに、カイジは気がついていないようだった。
 歳をとってずいぶん丸くなったと言われる赤木だが、若い頃から変わってない部分も当然あって、それがこうした、つめたい残酷さとして立ち現れるのだった。

 すべてを知った上で泳がされているとも知らず、思春期の少年のようにナイーブな表情をさらすカイジを、赤木は目を細め、ただ傍観していた。



 特に行くあてもないと赤木が言うと、カイジは自宅に赤木を誘った。
 アパートに着いて傘を閉じたとき、カイジはホッとしたような、すこし寂しいような顔をした。

 散らかってるけど、と言いながら部屋に上がるカイジに続き、赤木も靴を脱ぐ。
 カイジが灯りを点けると、雑然としているのにどこか殺風景な居間が赤木の目の前に現れた。

 しみついたタバコの匂いと、その奥でひっそりと息を潜めているような生活臭。
 赤木がカイジの部屋に上がるのは、これが初めてだった。

 どこか持ち主に似ているような、安普請の狭い部屋を赤木が見渡していると、カイジがどこからか白いタオルを持ってきて、赤木に差し出した。
「これ、使ってください」
 途中から傘に入ったので、そんなに濡れてはいなかったのだが、赤木は素直に手を伸ばす。
「悪いな」
 そう言ってタオルを受け取るとき、偶然、赤木の指がカイジの手に触れた。
 反射的に、カイジはビクリと体を強張らせる。
 まるで静電気が走ったような、ぜったいに触れてはいけないものに触ってしまったみたいな、大げさすぎる反応だった。

 すぐに、しまった、という風に、大きな目がおずおずと様子を窺ってくる。
 素知らぬふりで、淡々と赤木が湿った髪を拭っていると、カイジは安堵に表情を緩め、自らも濡れた肩を拭い始めた。
 これで本人は誤魔化せているつもりらしいのだから、赤木は内心、苦笑を禁じ得ない。

 ずっと傘を赤木の方へ傾けていたせいで、カイジの肩は片側だけ、すっかり濡れそぼって服の色が変わってしまっている。
 カイジは小さなくしゃみをして、ぶるりと体を震わせた。
 犬のようだ、とぼんやり思いながら赤木が眺めていると、カイジは鼻をすすり、それからなにかを思い出したように、ポケットから携帯電話を取り出した。
 片手でバックライトを灯して、ディスプレイを確認する。軽くため息をついてから、さらにぽつぽつと操作する。
 どうやら、メールかなにかを打っているようだ。

 今どきの若者らしく、こまごまと速く動く指。
 肩を拭う手も止め、ちいさな四角い画面に集中するカイジは、一時的に赤木の存在を忘れてしまったようにも見えた。

 それは出会ってから初めて赤木が目にする、カイジの表情だった。
 赤木といるときのカイジは、べつのことをしていても、必ずどこかで赤木のことを意識していたし、憐れなほどそれが赤木にも伝わってきた。
 しかし今のカイジは、うつむきがちな目許こそいつもと変わらないけれども、意識のすべてを手許の電子機器にーーその向こう側にいる、赤木ではない誰かに傾けていた。

 ふと、なんの前触れもなく、赤木の心でなにかが動いた。
 ごく淡い風にカーテンが揺れるような、ほんの些細なそれに赤木が意識を向けるより早く、カイジが携帯を操作し終えて顔を上げた。

「赤木さん。申し訳ないんすけど、オレ、ちょっと出てきます」
 赤木はわずかに眉を上げる。
 カイジは携帯の時計表示を見ながら、濡れたタオルを卓袱台の上に無造作に投げた。
 それから、なにやら急いでいる様子で玄関の方へ行きかけ、思い出したように足を止めて赤木に向き直る。
 携帯が入っていたのとは逆側の上着のポケットを探り、入っていたものを赤木に向かって差し出した。
「もしオレが帰る前に出るなら、ポストに入れてってください」
 ストラップもなにもついていない、シンプルな銀色の鍵。
 赤木が黙ってそれを見つめていると、カイジはぼそぼそと続けた。
「バイト先のやつに、呑みに誘われてて。金ねえし、気分じゃねえから断ったんだけど、もう店にいるって……連絡がきて」
 うんざりしたような口ぶりで言って、ため息をつく。

 乗り気じゃないというのは、どうやら嘘じゃないらしい。
 口調から、相手と特別親しい間柄というわけでもなさそうだ。

 それなのに、そんな強引な誘いに、渋々でも乗ってやろうとするのか。
 男が存外、面倒見がいいということは知っていたが、それでも、赤木には理解しがたいことだった。

 こんなにも急いだ様子でーー俺を、ここに残してまで?

 また、赤木の中でなにかが、音もなく微かに動いた。
 赤木はゆっくりと手を伸ばし、差し出された鍵ーーではなく、カイジの手を掴む。

「行くな」

 意外な台詞が口をついて出て、赤木は、おや、と思う。
 先ほどから心で微かに揺れ動いているものに、意識の外から、突き動かされたような感覚だった。

 カイジは驚いたように目を瞠っている。掴んだ手は、湿っていて熱い。
 え……、あの、でも。
 うろたえたように口ごもりながら瞳を揺らめかせるカイジを見て、ああ、そうだったのかと、唐突に赤木は悟った。


 カイジからの好意を、その恋を、泳がせておこうなどと思っていた。
 泳ぐどころか、端から溺れさせられているのは自分の方だと、気づきもしないで。


「お前、俺が好きなんだろう」

 静かに強く、刻みつけるような低い声で。
 赤木がそう口にした瞬間、その場の空気が凍りついた。

 一呼吸ののち、大きく息をのんで見開かれていくカイジの瞳を見て、赤木は目を眇めた。

「とんだ間抜けだな、俺も」
 呟きながら、赤木はため息をつく。
 自嘲したつもりだったが、その声は思ったよりもずっと刺々しく、苛立ったように響いた。

 カイジは泣きそうな顔で赤木を見つめている。
 じわりと熟れたような赤みが、頬に差している。

 薄い唇を皮肉げな笑みに歪め、赤木はひとつ喉を鳴らして笑うと、捕らえたままのカイジの手を、絡め取るようにゆっくりと引き寄せるのだった。



[*前へ][次へ#]
[戻る]