みかん


 
 ぼんやりとテレビを眺めていると、ふいに甘酸っぱくさわやかな匂いに鼻腔を擽られ、赤木は匂いのする方へと顔を向けた。

 卓袱台の向こうで、年若い恋人がみかんを剥いている。
 筋張った男の手の中で、コロンとしたちいさな塊は、やけにかわいらしく見えた。

 男は熱心な顔つきで競馬中継を見つめながら、みかんの皮をむしりとっている。ぷつぷつと繊維のちぎれる音がして、白い筋で覆われた橙色の果実が露わになっていくごとに、赤木の鼻先に漂うみずみずしい匂いは濃くなっていっていった。
 
 赤木の視線にも気づかぬ様子で、男はみかんを剥き終えると、半分に割ってひと房むしり、口の中に放り込んだ。
 もそもそと口を動かして、すぐさま顔を顰める。
 酸味が強すぎたのだろう。眉を寄せ唇をすぼめるようにして、顔をくしゃくしゃにしているのが可笑しくて、赤木はふっと目を細めた。

 男は持て余したように残りのみかんを手の中で転がしながら、走る馬に熱いまなざしを注いでいる。
 ちょっとだけ欠けた橙色の塊を眺めながら、赤木は興味本位で口を開いた。

「なぁ」
 大きな双眸がようやく液晶から引き剥がされ、赤木の方を見る。
 なんですか、と表情だけで尋ねてくる男の、掌中にあるものを顎で示しながら、赤木は続けた。
「それ、俺にもくれよ」
 男は自分の手の中に目を落としたあと、眉を顰めて赤木を見る。
「……これ、すげぇすっぱいっすよ」
「知ってる」
 赤木が言うと、男は怪訝そうな顔をする。
 まさか赤木にずっと見られていたとは、思いも寄らないのだろう。

 低く喉を鳴らして笑いながら、赤木は「いいから」と言ってさっさと口を開けてしまう。
 男はちょっと面喰らったような顔をして、なにか言いたげに口をもごもごさせていたが、赤木が黙ったまま目で促すと、渋々といった様子でみかんをひと房ちぎり取った。

 男は卓袱台を挟んで赤木の方へと身を乗り出し、腕を伸ばしてみかんを赤木の口許へと差し出す。
 日に灼けた指に摘まれた、半月型のちいさな果実。
 赤木はそれに目線を落とし、ほんの端の方をぱくりと咥える。
 唇が、かさついた指先に触れる。男がかすかに身じろぐ気配を感じて、赤木は伏せていた目をそっと上げた。
 視線が合う。動揺したように男の目の縁が広がるのを見ながら、赤木は唇を撓めた。
 悪ガキのような笑みに男が身構えるのとほぼ同時に、赤木は男の指ごと、白っぽい房をまるのまま口に含んだ。

 火傷したかのように引っ込められようとする手を、赤木は素早く手首を掴むことで強引に留まらせた。
 息をのんで目許をひきつらせる男に、逃げるなよ、と目線ひとつで命じ、赤木は口の中のやわらかい果実を食む。
 うすい皮がぷつりと破れ、酸味の強い果汁がじゅわっと溢れてくる。
 鼻に抜けるようにして漂う、きりりとした柑橘の香り。
 それを愉しみながら、赤木は戯れに男の指先を舌で掠め、ときおり歯を立てた。

 指まで食べてしまうかのような赤木の行為を、男はあからさまに身を固くして耐えていた。
 本当は逃げ出したいのだろうが、赤木の視線にさらされるともう、身じろぎすらできないようだった。

 せめてもの抵抗のつもりなのか、黒い双眸で赤木を咎めるような視線を送る男。
 あれだけ熱心に見ていたはずの競馬中継も、もはや完全に意識の外へと追いやられてしまったようだ。妖しく張り詰めた空気のなかでは、騒がしいテレビの音さえも、どこか遠く響く。


 赤木の舌や歯が当たるたび、男は表情を如実に変化させていった。
 瞳を揺らし、頬を赤らめ、唇を噛む。まるで指ではなく、もっとべつの場所を舐められてでもいるかのような扇情的な表情を、視線で舐るように味わいながら、赤木はゆっくりとみかんを咀嚼した。
 掴んだままでいる男の手首から、とくとくと速い脈が伝わってくる。

 やがて、湿り気を帯びたため息とともに、口に含んだ指に震えが走るころ、赤木は男の指にぬるりと舌を絡めた。
 あ、と微かな声を上げ、男は傷つけられた動物のように身を竦ませる。
 誤魔化しようもなく艶めいた反応を見届けたあと、赤木は長い時間をかけて噛み潰した果実を嚥下し、男の指を軽く吸いながら口内から抜き取った。

 遠のいていたテレビの音が、急に溢れかえってきてふたりの鼓膜を揺らす。
 まるで事後のように荒く深い息を吐き、官能の昂ぶりによる涙を湛えた瞳で、男は赤木を睨みつけた。
 恨めしげなまなざしを受け、赤木は男の指先に唇をつけたまま、すました顔で言葉を放つ。
「……ん、甘くなった」
 その台詞が予想外だったのか、一瞬怒りを忘れたみたいにぽかんとする男に、赤木はニヤリと片頬をつり上げた。
「中和したんだよ。お前さんは甘いからな。体も、声も」
 男は大きな目を幾度か瞬かせたあと、眉を顰め、唇を尖らせた。
 馬鹿じゃねえの、と毒づく男の頬に、じわじわと染みるような赤みがさしてくる。
 ふてくされて今にも泣き出しそうなその表情さえも、赤木にとってはとても甘く、口内に残る果実の酸味をやわらげていくのだった。


 目を細めて男の顔を眺めながら、赤木は未だ掴んだままだった手首から指を滑らせ、男の手を弄ぶように触る。
 意外に長い指の一本一本をなぞり、乾いた手の甲の形を指先で確かめ、湿った手のひらをあやすように撫でる。
 一連の行為に意味深な含み笑いを添えてやれば、男は不機嫌そうに舌打ちしながらも、ぎゅっと目を瞑って体の力を抜いた。

 ほら、やっぱり。
 本当に甘いな、お前は。

 声には出さず呟いて、赤木は肩を揺らして笑う。
 さんざ弄くり回した手にするりと己の指を絡めて繋ぐと、赤木はぺろりと唇を舐め、とびきり自分に甘い恋人の方へと、大きく身を乗り出したのだった。





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