靴 カイジさん視点


「身軽でいいよな、お前」

 などと、羨望と皮肉の入り混じったような言葉が、つい口から零れ出た。
 自分の耳でそれを拾った瞬間、ひどく陰鬱な気分になった。

 靴を履く寸前だったしげるは、振り返りざま、切れ長のきれいな瞳でオレを射抜いた。
 その鮮烈さが、今のオレには眩しすぎて、八つ当たりのようなことを口走った惨めさも相俟って、目の奥がぎゅっと熱く痛んだ。


 天馬空を行くが如く生きる、自由という概念が人の形を取ったかのような少年。
 この狭いアパートの部屋も、コイツにとっては、恐らくただの羽休め。
 でも、オレにとっては一応生活の拠点で、もし明日いきなりなくなっちまったとしたらたぶん困る場所で、こんなオレにはきっと、コイツのような生き方は一生、できない。

 オレがこの狭い部屋とバイト先とパチンコ屋を往復する日々を送る間にも、コイツはひとりでぐんぐん遠くへ行っちまう。
 そのことに対する、嫉妬と羨望と焦燥と。
 あとは、あまりにもあっさり出て行っちまうコイツへの寂しさもちょっとだけあって、玄関先の冷えた廊下に立ち尽くしながら、『身軽でいいよな』なんて嫌味のような言葉を意味もなく呟いて、自己嫌悪で凹んでいる。
 さらには、こんなことで凹んでいる自分に対する苛立ちもその上に乗っかって、マイナスな感情が幾重にも複雑に折り重なり、心に重苦しい層を作っているみたいだった。

 心にのし掛かる鉛のような感情は、体まで重くして、オレはますます身軽さから遠ざかっていく。
 そんな惨めなオレの姿は、このきれいな瞳に、いったいどんな風に映っているのだろう。

 ささくれだった気分で押し黙るオレの顔をじっと見て、しげるは口を開いた。
「あんただって、どこへでも好きなとこへ行って、生きたいように生きればいい」
 さも当たり前のことのように淡々とそう告げる、揺るぎない瞳がやはり痛いほど眩しくて、オレは下に目線を逸らしながら、卑屈な声でボソボソと言い返した。
「そういうわけにゃいかねえだろ」
「なんで」
「……大人には、いろいろあんだよ」
 そんな曖昧な答えを、もっともらしく口にしたけれど、本当は、『いろいろ』なんてないことはわかっていた。
 結局、すべては自分次第なんだってことも。

 歯切れの悪いオレの返答に、しげるはすこしの間沈黙していたが、やがて「そう」とひと言呟いただけで、それ以上追求してはこなかった。
 そのことに、オレはちょっとだけホッとする。
 ナイフのような瞳を瞬かせ、しげるは前に向き直ると、
「この靴、そんなに重いの?」
 なにを思ったかそんなことを呟いて、履き古したオレのスニーカーに、白い靴下のつま先を突っ込んでしまった。

「……なにやってんだよ」
 不可解な言動に、オレは眉を顰める。
 大きすぎるスニーカーの履き心地を確かめるように、三和土の上で幾度か足を動かしていたしげるは、やがて、危なげなくまっすぐに立ってオレを見上げた。
「確かに、でかくて汚くてちょっと重いけど、歩きにくいってほどでもないと思うけど」
 ……『汚くて』は余計だろうが。
 そう文句を言おうとして、口を噤んだ。
「……べつに、靴のせいじゃねえ」
 生真面目にそんなアホな答えを返すと、余計に気分が重くなった。
 しげるだってアホじゃないから、オレが好きなところへ行って生きたいように生きられないのが、『大人』の靴が重すぎるせいだなんて、本気で思ってるわけじゃないだろうけれど。


 うつむいて床ばかり眺めていると、ざり、と玄関の三和土を踏む音のあと、しげるがクスリと笑う気配がした。

「あんたがずっとここにいてくれるの、オレにとっちゃ悪いことじゃないんだけど、」

 流れるような口調でそう言って、しげるはサイズの合っていない靴で、鮮やかに踵を返す。

「とりあえず、これより軽い靴を探しに行くことから、始めてみたら」

 ーーそれじゃ、またね。

 咄嗟に声を上げるより先に、ガチャリと玄関の扉を開け、しげるは颯爽と出て行ってしまった。
 残されたのは、呆気にとられた間抜け面のオレと、ちいさな白いスニーカー。
 慌てて後を追おうとして、半ばつまづきながら季節外れのサンダルを突っかけて、だけどドアノブに手をかける寸前に、オレは動きを止めた。

 遠ざかっていく足音は、靴の重さやサイズのズレなどまるで感じさせないほど軽快だった。
 それは鼓膜を通してオレの心にまで響き、重くのし掛かっていたマイナス感情の層を、魔法みたいに軽くしていった。
 気がつけば、オレは息すら潜めるようにして、その足音に耳を傾けていた。


 廊下を渡り、鉄の階段を降り、足音が完全に聴こえなくなるまで、オレは肌寒い三和土に突っ立っていた。
 完全に足音が消えたあと、しんとした玄関先で、ひとり大きく深呼吸する。

 きっと、しげるならあの靴がぴったり合うような大人になっても、今の生き方を崩さないでいられるんだろうな、とぼんやり思った。
 オレはやっぱり、アイツのようにはいかないだろうけれど、それでも、しげるが靴のことにかこつけて、オレを動かそうとしているんだってことはわかった。

 いったいどんな促し方だよ、って思う。
 でも、なんだかアイツらしいとも思って、思わず苦笑いが漏れた。

 その笑いでさらに心が軽くなったから、どうやら天気も晴れみたいだし、明日はしげるに促されるまま、代わりの靴を探しに出てみようかと思った。
 羽が生えたみたいに軽くて、どこへでも好きなところへ歩いて行けそうな、そんな靴を。





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