鯨の目



 頬に当てられる、大きな手のひら。
 その乾いた温度を肌で感じながら、カイジは自分の目線とそう変わらない高さにある、赤木の目を見た。

 くっきりと青白い白目と、淡い色に透ける瞳。
 初めて見たとき、宝石みたいに綺麗だと思った。
 でもそこに宿る光が、ただの飾り石なんかには到底出すことのできない、知性の輝きだということも、もちろんカイジは知っている。



 短く生え揃った睫毛が、瞬きにあわせて動くのを、ちいさな蝶の羽ばたきを観察するみたいに、息を潜めてじっと見守る。
 その睫毛がわずかに落とす影の下、赤木の瞳はカイジをとらえ、ふと和らいだ表情を見せた。

「カイジ」

 掠れた低い声に名前を呼ばれる心地よさに、カイジは思わず、目を細めた。



 最近、赤木は変わった。
 と、カイジは思う。

 全体的な赤木の雰囲気や言動、仕草なんかは、なにも変わらないように見える。
 けれども、赤木と長く共にいるカイジは、確かにその変化を感じていた。

 特に、その、鋭い目。
 どんな獲物も逃さない猛禽類のような鮮烈さが、いつの頃からだろう、うすい紗がかかったみたいに、ぼやけるようになった。

 と言っても、赤木の目がそんな風になるのは、一日のうちでほんのわずかな時間で、今みたいに間近で見つめ合うときにその変化を感じたとしても、次の瞬間には、すっかり元の強い眼光が戻っているから、カイジはなにか幻でも見ているような、そんな気にさせられるのだった。

 でも、その幻のような瞳が、カイジは密かに好きだった。
 その目に見つめられたら、赤木といるといつもうるさく騒いでしまうはずの鼓動が、水を打ったようにしんとする。
 澄みきっているのに底のない瞳に、吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える。

 それは、カイジをとても不思議な気持ちにさせた。
 限りなく静かなのに、ものすごい引力で惹きつけてくる瞳。


 その目によく似た目を、カイジは知っていた。
 海の底をゆったりと泳ぐ、鯨の目。
 いつかテレビで見たことのある記憶の中のそれは、丸く小さく穏やかで、切れ長で涼やかな赤木の目とは似ても似つかないはずなのに、なぜかカイジはそれを連想してしまう。

 憂いや迷いや苦しみ、喜びや悲しみさえも、悠々と泳いで越えてしまったかのような、深い瞳。
 それを見るたび、カイジは赤木がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。

 いつの日か、赤木は自分の前からいなくなるかもしれない。
 自分じゃとても手の届かないくらい遠いところへ、行ってしまうかもしれない。

 でも、そうなっても仕方がない。こんな瞳を持つ人には、この世界じゃきっと役不足だから。
 半ば諦めのような気分でそんな風に納得してしまえるほど、赤木の目に見つめられた心は凪ぎ、やけに冷静なのだった。
 まるで深い海の底、抗うことのできない流れに身を任せてたゆたっているような、静かな気持ちだった。


「……どうした?」

 物思いに耽っている様子のカイジに、赤木が問いかける。
 その瞳はすでに鯨の目ではなく、射るように鋭い赤木の瞳に戻っていた。
 カイジは緩くかぶりを振り、軽く目を伏せる。

「……べつに。なんでもねぇよ」

 そんな嘘をついて、憂いや悲哀を瞼の下に隠し、カイジはすこし寂しそうに微笑んで、頬を撫でる赤木の手に自分の手を重ねたのだった。







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