果てる カイジさんが変態


 息苦しいほど重く澱んだ空気が、ちいさな雀卓の周辺だけ、まったく別の空間のようにピンと張り詰めていた。
 咳払い。衣擦れ。マッチを擦る音。それらに混じり、牌のぶつかる無機質な音が響く。


 薄暗い照明の下ぼんやりと光を放つような、白い姿の男がいる。
 この雀荘にいる誰よりも異質な容姿を持つその男は、この雀荘にいる誰よりも異彩を放っていた。

 他を圧倒する闘牌。最初の数局、特に目立ったところもなくひたすら凡庸に見えたその打ち筋は、ある一手でガラリと様相を一変させた。
 他家やギャラリーのざわめきに、停滞していた空気が撹拌され動き始める。
 いまや、場は完全に男の支配下にあり、誰もが息を飲んで男の一挙一動を全身で意識せざるを得なかった。

 立ったまま勝負の行く末を見守るカイジとて例外ではなかったが、その目線は男の手、特に牌を操る白い十指に固定され、微塵も揺らぐことはなかった。



 切った張ったの世界で気狂いじみた博奕を打ち続けている指だとは、にわかに信じがたいほど、その指は整っていた。
 すんなりと長く、どこにも無駄な肉付きがない。清々しいほど伸びやかで、野生に生きる動物の体躯を髣髴させる。
 女のように、なよやかな柔和さがあるわけじゃない。
 そのくせ、どんな女よりもーーどんな人間よりもしなやかな指であるように、カイジには思われてならないのだった。

 信じがたい、といえば、そもそも無茶な博奕ばかり打つこの指が、一本も欠けることなく無傷で残っていること自体、奇跡に等しい。
 しかしカイジの鉄火打ちとしての感性は、それを当たり前のことだと受け入れていた。

 その指は、赤木しげるの脳と繋がっているのだ。
 あの神がかった、あるいは悪魔じみた闘牌を組み立てる脳と。
 そんな器官が、欠けようはずもない。
 無傷であることが当たり前のようにそこに在る。その存在自体が、赤木しげるという男の凄みをなによりも雄弁に物語っているのだ。
 

 牌を摘む。切る。倒す。
 男の脳から送られた指令に従い、よどみなく動く末端のパーツ。
 静かに潔いその挙動は、男の生き様をそっくり映し出しているようで、ある種の気高さすら感じられる。

 カイジは密かに唾を飲み込んだ。
 鮮烈で生々しい牌捌きは、言いようもなくカイジの情動を突き動かすのだ。
 まるで感覚神経が牌と繋がってしまったみたいで、男の指が動くたび、あっけなく心の箍が外されていくようだった。

 わずかな恐れとともに体を震わせるのは、突き抜けるような欲求。
 ありふれた肉欲とはほんのわずか外れたところにありながら、どんな本能よりも野蛮な欲求だった。

 その美しい指に導かれて、果てまで辿り着いてみたい。
 白く汚れたとしても、その指はきっと美しいのだろう。

 いつの頃からか、アカギの博奕を見るたびに、こういう想像がカイジの頭を駆け巡るようになった。
 後ろめたさを感じつつも、その指からどうしても目をそらすことができない。
 カイジはうっすらと涙ぐむ。
 その黒い瞳を潤ませているのは、己を恥じる気持ちやアカギに対する罪悪感ではなく、ひたすらに純粋な興奮だった。

 自分は気が触れちまったのかもしれない。そう思いながら、カイジはポケットからタバコを取り出した。
 今、勝負の只中にいるアカギは、自分の異常な欲望になど、当然気づく由もないだろう。
 けれども、今、その鋭い目にすこしでも自分の方を見られたら。
 一瞬で、すべてを見抜かれてしまうかもしれない。

 その想像にゾクリとしながら、咥えたタバコに火を点けることすら忘れたカイジの目線の先、白く濡れたように艶やかな指先が、やがて、すらりと手牌を倒す。

「ロン」

 静かな声が告げるのは、勝負の終わり。
 美しい指に導かれた、ひとつの物事の果てを見たとき、自らも果てに辿り着いたかのように大きく震え、カイジは熱の燻るため息を溢した。







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