七月
汗をかいたグラスが、カランと音をたてた。
アカギは読んでいた雑誌から顔を上げ、卓上に置かれたグラスの向こう、溶けるように床に寝そべっている男を見る。
ここの家主である男は死んだような顔つきで、ぼんやりと天井を見上げていた。
なにをするでもなく、冷たい床の上でゴロゴロしているその姿は、アカギにとって、もはや夏の風物詩とでもいうべき見慣れた光景だったが、その虚ろな瞳がやや憔悴していることに、鋭いアカギは気がついていた。
顔色もこころなしか青ざめているように見えるが、部屋の薄暗さのせいでそう見えるだけなのか、それとも本当に顔色が悪いのか、アカギの座っている位置からは判別が難しい。
じっと目を凝らすようにして、アカギがその顔を見つめていると、やがて、男はうっすらと口を開き、
「飯、作るか」
まるで久方ぶりに言葉を発したかのような、ひどく掠れた声で、ぽつりと呟いた。
しかし、言葉とは裏腹に、男はそのまましばらくぼうっとし続けた。
有言不実行は男の専売特許のようなもので、これにも慣れきっているアカギは特段なにも言わなかったが、汗まみれで床に伸びている男の疲れたような表情が、すこしだけ鳩尾のあたりにひっかかったのだった。
夏の盛りのこの時期に、男が夜毎に魘されていることをアカギが知ったのは、去年の七月。ちょうど、男と同衾するような間柄になって間もない頃のことであった。
もともと眠りが深い方ではないアカギが、夜中、隣から聞こえる呻き声や歯軋りで目覚めると、男はいつも、タオルケットをぎゅっと体に巻きつけるようにして、ベッドの壁際の隅に縮こまっていた。
長い髪を絞れそうなくらい汗だくになって、男は苦悶の表情を浮かべ眠っていた。
ときおり、呻き声に紛れて人の名前らしきものが聞こえることがあるが、発音がひどく不明瞭なため詳しくは聞き取れない。
とりあえず、憎しみや悲哀にまみれたその声が、アカギの名前を呼んでいるわけでないことだけは確かだった。
そして今年も、蝉の声が聞こえ始める頃から、カイジは同じように魘されるようになっていた。
暑く寝苦しい夜が続いていたが、そのためにカイジが苦しんでいるわけではないのは明白だった。
なにか悪い夢に囚われていて、そこから逃げ出そうと必死でもがいているようなその姿を、アカギは毎夜、隣で見続けていたのだった。
近ごろのカイジの憔悴が、夜の眠りの浅さから来ていることはまず間違いない。
去年の夏も同じように、カイジはアカギの目の前で、日に日にやつれていったのだ。
ただ、本人はそのことに自覚があるのかないのか、普段と変わらぬぼんやりした様子で日中を過ごしている。
もともと、なにをしていても気怠げな男なので、単に暑さのせいでそのダラけぶりに拍車がかかっているだけだと、すくなくともアカギ以外の人間からは、そう見られているのかもしれない。
アカギはわずかに目を眇める。
薄暗い部屋に目が慣れてきて、男の喉の下の窪みに、玉の汗が浮かんでいるのが見て取れた。
黒いタンクトップから伸びる腕。
昨夜、アカギではない誰かの名前を呼びながら、ここにはいないその誰かに向かって震えながら差し伸べられていたその腕は、今、男の体に沿ってだらんと床に這わされているのだった。
やがて、腹の虫が佗しげな声で空腹を訴えると、男は深くため息をつき、ようやく体を起こした。
ボサボサに乱れた髪のまま、生ける屍のような動作で、大儀そうに、ゆらりと立ち上がる。
自分の方を一瞥もしないまま、足取り怪しくフラフラと台所の方へ向かう背中を、アカギは呼び止めていた。
「カイジさん」
男は足を止め、ゆるりと振り返った。
長い髪を汗で頬に張り付かせたまま、つり上がった双眸がようやくアカギを見る。
大きな瞳が、今日は半分くらいしか開いていない。そして、常に水分を湛えて濡れているような眼球が、乾いているように見えた。
無言のまま言葉の続きを促すその瞳を見ながら、アカギが沈黙していると、男の顔が怪訝そうに歪められる。
「……なんだよ?」
しかし、呼びかけておきながら、アカギは別段、男に用があったわけではなく、
「昼飯、なに」
適当に思いついた、どうでもいいことを問いかけると、
「カレー……肉なしだけど」
うんざりしたようにそう答え、カイジは台所に消えた。
そんなにだるいのなら手料理なんかやめればいいのにとアカギは思ったが、きっと他に食料の買い置きがないのだろう。かといって、炎天下のもと外に出るのはもっと億劫だから、渋々男は重い腰を上げたのに違いなかった。
薄暗い部屋にひとり残されたアカギの耳に、さまざまな音が飛び込んでくる。
冷蔵庫を開ける音、水の流れる音、なにか物を置く音。
しんとした部屋に響くそれらの音をしばらく聞いたあと、アカギは静かに立ち上がった。
ジメジメと湿ったような台所で、灯りも点けずに、男はシンクに向かっていた。
どうやら、なにか切っているらしい。
男の背がかすかに揺れるのに合わせ、トン、トン、と乾いた音が不規則に鳴っている。
音と音との間隔が、やけに長い。その音さえも気だるげで、やる気がまるで感じられなかった。
むき出しの肩や腕、ハーフパンツから伸びる足が、薄暗がりの中ぼんやりと浮かんでいる。
やたら頼りなく見えるその背中をアカギが眺めていると、ふいに、カイジが動きを止めた。
男の肩が動く。うつむいて、左手の甲で目を擦っているようだ。
それを見た瞬間、アカギは男の方へ足を踏み出していた。
「ねぇ」
アカギの声に男は振り返り、いつの間にかすぐ背後まで来ていたアカギに、ちょっとびっくりしたような顔をする。
至近距離で見ると、やはりその顔色は、部屋の薄暗さだけでは説明がつかないほど青ざめていた。
「……アカギ?」
不審げな声を無視し、アカギは軽く見開かれた黒い瞳を見つめる。
その瞳は、やはり乾いていた。
包丁を握ったままの手元を見ると、まな板の上には半分だけくし形に切られた玉ねぎが乗っかっている。
どうやら、それが目を擦る仕草の原因だったらしい。
中途半端に脱力するような感覚のあと、目の前の男に対して降って湧くように理不尽な苛立ちを覚え、アカギは感情に任せてカイジの首筋を思いきり噛んだ。
「……っってぇっ!!」
今までの生気のない様子が嘘のように派手な悲鳴を上げ、カイジはアカギから逃げるため、反射的に前のめりになろうとする。
腕でその体を固定しながら、塩辛い肌に痕がつくほど強く首筋に歯を食い込ませたあと、アカギはようやく口を離した。
「……ぁに、すんだ、テメェっ……!」
ぜえはあ言いながら憤怒の形相で振り返ってくるカイジの目には、痛みによってようやく、うっすらとした水の膜が張っていた。
薄暗い室内で、乏しい光を集めて光るようなその瞳を間近に見ながら、アカギはぼそりと呟く。
「あんたが、泣かないから」
「……は?」
刺々しく聞き返す声に、アカギは返事をしないまま、くっきりと歯型の残るカイジの首筋に、強く額を押し当てた。
あんなひどい眠り方をするくらいなら、泣けばいいと思ったのだ。
この男の過去など知らないが、とにかくなにもかも洗いざらいぶちまけて、鼻水と涙を垂らし、自分の前で子供のようにみっともなく泣き喚けばいい。
そうすることで、カイジがあの眠りから解放されるかどうかはわからない。
ただ、普段どうでもいいことであんなにもメソメソしているくせに、この時期に関してだけはまるで泣くことを忘れたみたいに沈黙し、ひたすらじっと耐えているようなカイジの様子が、涙を流すことと引き換えに日々体をやつれさせていくようなその姿が、アカギは頗る気に食わないのだ。
隣で眠る恋人が、魘されるほど自分以外のものに囚われたままでいるのを、面白く思う人間がどこにいるだろう?
「……お前、オレを泣かせたかったのかよ?」
アカギの深層など知る由もないカイジは、言葉の表層だけを受け取って、「趣味悪」と吐き捨てる。
本当はそういうわけじゃないのだけれど、訂正するのも面倒くさいし余計なことを言うつもりもないアカギは、カイジの首筋に額をつけたまま、腕を緩めてタンクトップの上から脇腹を撫で上げた。
肩をぴくりと動かし、カイジは低い声でアカギを牽制する。
「やめろ……力、抜ける……」
「ちょうどいいじゃない。力、抜かなきゃできないこと、しようよ」
「……お前……」
ふざけんなよメシどうすんだ、とうるさいカイジを無理やり黙らせるみたいに、アカギはタンクトップの下に手を潜り込ませ、汗ばんだ肌に直に触れる。
やめろ、離せと喚きながら、脇腹が弱いカイジはアカギの腕の中で身を捩らせ、徐々に体勢を崩し始める。
ふにゃふにゃになった体を支えながら、アカギは縫合痕のあるカイジの左耳に唇を寄せた。
「そのまま、楽にしてな。余計なこと考えずに」
軽口のようなそれこそが、自分が今いちばんカイジに言いたいことなのだと、口に出して初めて、アカギは気づく。
首筋に額をつけたまま軽く息を吸い込むと、カイジの体からは甘い汗の匂いがした。
アカギはそのまま目を閉じ、夏がきてから心なしか痩せた気のする体を、きつく抱きしめたのだった。
終
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