千夜一夜


 むかしむかしあるところに、ひとりの少年がおりました。

 白い髪と、白い肌。
 真っ白な姿をしたその少年はまだほんの子どもでしたが、並はずれた博奕の才能をもち、どんな大人にもけっして負けることはありませんでした。
 しかしその才気ゆえ、少年は誰とどんな勝負をしても、決して満たされることのない空虚を抱えておりました。
 お金や名声などではとうてい埋めることのできない伽藍堂の心で、その少年はいつも、つまらなそうに世界を眺めていました。




 そんなある日、少年はとある賭場で、ひとりの男と出会いました。
 男はどこにでもいるような普通の青年で、特徴といえば体に残るいくつもの傷と、とんでもなく泣き虫なことくらいでした。

 大金を賭けたギャンブルで少年に負けた男は、移植に使える健康な臓器をすべて奪われて死ぬ、という取り決めになっているようでした。
 目前に迫った死に、男は号泣し、震えていました。敗者のそんな姿を、少年は腐るほど見飽きていましたが、その男は今までの相手とは違い、無様に命乞いをしませんでした。

 獣のように這いつくばる男が今にも連れ去られようとしたその時、少年は男に尋ねました。
 男の頬に残る裂傷の痕、その由来を。
 なぜそんなことを訊いたのか、少年自身にもわかりませんでした。ただ、いつもの単なる気まぐれに過ぎないだろうと、周りの連中はそう思っていたようでした。

 暫し、男は呆気にとられていましたが、やがて震える声で、ぽつり、ぽつりと、己が身を投じたとあるギャンブルについて話し始めました。
 男自身にさして興味があったわけでもなく、なんとなく声をかけたような形でしたが、気がつけば、少年は男の語る話に惹き込まれていました。
 男の過ごした異常な一夜を、追体験するような気分で聞いているその時、少年はいつものつまらない気持ちをすっかり忘れ、博奕にのめり込むときのように、話に集中していたのでした。

 しかし、男は話の途中で、突如として口を噤んでしまいました。
 尻切れとんぼになった物語。男は床に這いつくばったまま少年を見上げ、

『この続きは、明日になったら話してやる』
 と、重々しく言いました。

 つまり、話の続きが聞きたければ、明日まで自分を生かせというのです。

 涙に濡れた男の大きな目が、ギラリと強く光ったように見えました。
 死に行く者の戯言など、聞いてやる必要は一切ありません。
 しかし、少年は男のことをすこし『面白い』と思い始めていましたし、話の続きも気になったので、男の言うとおりにすることにしました。

 男の臓器を奪う予定だった者たちは、当然、抗議の声を上げましたが、少年は金を積んで黙らせました。
 事実上、男を買い取る形になった少年は、街はずれにちいさな部屋を用意して、そこに男を幽閉しました。
 逃げられないよう繋がれることに男は不満そうでしたが、黙ってされるがままになっていました。
 ただ、表面上だけはしおらしく装っていながら、水面下では虎視眈々と逃げる隙を窺っているようでした。


 次の日の夜、少年が話の続きを促したとき、男は妙な顔をしました。
 こんな風に閉じ込めておきながら、自分になにもしない少年に、不気味さを感じていたのかもしれません。
 しかし、無抵抗の人間を痛めつけることに快楽など感じない少年にとっては、当然のことでした。
 このときの少年は、ただ純粋に、男の話の続きだけを求めていたのです。

 不可解そうにしながらも、男は昨夜の続きを話し始めました。

 男の低い声で静かに語られる、ひりつくような駆け引き。
 男は決して話が上手いわけではなく、ところどころ、つっかえたり、口籠ったりすることもありましたが、その声は不思議と少年の耳にすんなり馴染み、脳に染み渡るようでした。
 話に熱が入ってくると、口下手な男の声が大きくなり、次第に早口になっていく男の興奮が、空気の震えを通して少年にも直に伝わってくるようでした。

 しかし、この日も男は、話の途中で口を閉ざしてしまいました。
『続きは、また明日、話してやる』


 少年は男に食糧や水を与え、話が終わるまで生かし続けました。
 数日後、頬の傷の話が終われば、指の縫い痕の話を。それが終われば、腕の焼印の話を。
 少年は、まるで知りたがりの子どもみたいに、次々と男に傷の由来を尋ねました。
 話が終わるまではなにもされないと悟った男は、少年にリクエストされた話を細切れにして、毎夜毎夜、長い時間をかけてそれを話しました。



 いくつもの夜をそんな風に過ごすうち、少年はある時、なにをしても満たされることのなかった自分の中の空虚が、すこしずつちいさくなってきていることに気がつきました。
 そして、それはどうやら、男の語る話のせいらしい、ということに気づく頃には、少年はずいぶんとたくさんの夜を、男と共に過ごしていたのでした。

 最初は怒りや怯えをちらつかせていた男も、少年に自分を殺すつもりがないと完全に悟ったのか、怪訝そうにしながらも、すこしずつ少年に対する態度を軟化させていました。



 やがて、男が自分の与えた食糧を食べる様子や、床に丸まって眠る姿を見るにつけ、少年は今まで味わったことのない気持ちが自分の中で膨らんで、伽藍堂の心を急速に満たしていくのを感じました。
 それがなんなのか、少年にはわかりませんでしたが、男が己の体に残る傷の由来をすべて語り終えたその日、少年は自然と、こう口にしていました。

『ギャンブルの話じゃなくても、なんでもいい。あんたの話を、もっと聞きたい』

 少年の言葉に、男は驚いたように瞬きを繰り返していました。
 それから『変なやつ』と呟いて、少年と出会ってから初めて、ほんのりと、苦笑いのように笑ってみせたのでした。




 それから、毎夜、男はぎこちなく自身のことについて話し始めました。
 ギャンブルの話に輪をかけて要領を得ない男の身の上話に、少年は黙って耳を傾けていました。
 まるで、ほんのちいさな子どもが、寝る前にお話を聞かせてもらうときのように、穏やかな様子で。

 もし、男の臓器を奪おうとした連中が、今の少年の姿を見たら、きっととても驚き、別人ではないかと疑ったことでしょう。
 男といくつもの夜を共に過ごすうち、少年は自分でも気がつかないほど、すこしずつ、でも確実に、変化していったのでした。




 やがて、またいくつもの、長い長い夜を越え、男が数少ない身の上話も語り終えてしまうと、少年は、気まずそうに黙り込んでいる男の鎖を解き、
『あんたのことを、もっと知りたい』
 そう言って、男に口づけをしました。
 男は泣きそうな顔で真っ赤になっていましたが、ついぞ、少年のもとから逃げ出そうとはしませんでした。



 それから、少年と男は、千を遥かに越える夜を共に過ごしました。
 男を縛る鎖はもうありませんでしたが、男はいつも少年のそばにいて、泣いたり怒ったり、笑ったりしていました。
 男といると、少年はいつも、自分の中の空虚があたたかいもので満たされていくような気がしました。
 少年はもう、男と出会う前のように、伽藍堂の心でつまらなそうに世界を眺めることは、なくなっていました。

 少年が歳を重ね、青年になっても、さらに歳を重ねて、『神域の男』と呼ばれるようになっても、男はずっとずっと、少年のそばにいました。

 そうして、さらに数え切れないほどの、長い長い夜を重ねて、やがて男がいなくなってしまったあとも、少年の心を満たしたあたたかさは消えることなく、男が生前そうしていたように、ずっとずっと、少年とともにありつづけたのでした。







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