とある夜 カイジさん視点 痒い話




「ーーこりゃまた、派手にやられちまったもんだな」

 あいさつも、労りの言葉もすっ飛ばして、その声はいきなりオレの上から降ってきた。
 痛みを堪えつつ瞼を上げると、真っ黒な空から落ちる雨粒が目に直撃し、視界が滲む。
 目の粘膜に異物感を伴う、不快な感覚。でも、かえって都合が良かった。惨めに殴られ、蹴られて地面に大の字に倒されて、情けなさにとめどなく溢れる涙を、声の主に見られなくて済むから。

 瞬きすると、雨粒が溜まった涙といっしょに零れ落ちる。クリアに澄んだ視界の中、声の主がオレを見下ろしていた。
 きっと偶然、この辺を通りがかって、この人はオレを見つけたんだろう。
「お前って、いつも傷だらけだよなぁ」
 その表情や口調からは、呆れや憐憫など一切感じ取れず、ただ、淡々と、事実だけを述べているようで、オレはちょっとホッとする。

 この人の、こういうところにオレは救われているんだ。
 博奕がらみで痛い目に遭わされるのは日常茶飯事で、このくらい、今さらどうってことはないんだけれど、恋人、兼、憧れの存在であるこの人に蔑まれたり憐れまれたりするのは、想像しただけでも耐えられそうになかった。

 ーー赤木さん。
 名前を呼ぼうとして初めて、口の中をひどく切っていることに気づく。
 もごもごと舌を動かしても言葉は形にならず、血の味ばかりが口内に広がって、唾液とともに唇の端を伝う。
 情けなさに、また、込み上げてきた涙をぐっと堪えているオレを覗き込み、赤木さんは顎に手を当て、なにかを考え込むような顔をしていた。

「カイジ」

 返事ができない代わりに、腫れた瞼を一度瞬かせる。
 すると、赤木さんは真面目な顔で、「おとなしくしてろよ」と言って、オレの視界から消えた。

 残された意味深な言葉を訝しむよりも、赤木さんが急にいなくなってしまったことに対する不安が先に立ち、慌てて体を起こそうとした瞬間、体を引き裂くような痛みに心臓が止まりそうになった。
 急激に視野が狭くなり、意識が暗転しそうになる。
 体を動かせたのは、ほんの数センチ程度。意識とともに落ちかけた頭や力の抜けていく腕が、ふいに力強いなにかに支えられ、その刹那。

 なにが起こったか本気でわからなくて、オレは自分が気を失って夢でも見ているのかと思った。
 体が、浮いている。背に当たっていた硬い地面の感触が消え、上半身が緩やかに起こされ、ボロボロのジーンズに包まれた二本の足が目に映る。

 それを自分の足だと認識するのとほぼ同時に、
「おっ、まだまだ現役じゃねぇか。俺の腕力」
 愉しそうな声がものすごく近くから聞こえてきて、オレの心臓がふたたび止まりかけた。

 赤木さんの顔が、すぐ傍にある。白い睫毛の本数まで数えられそうなくらいの至近距離に。
 気の遠くなりそうな体の痛みよりも先に、自分の置かれている状況を把握したことで、オレは意識を失わずに済んだ。

「お前の家の近くで良かったな。このまま運んでやれそうだ」
 そう言って笑う、赤木さんの声を確かに鼓膜が拾っているのに、まるで理解が及ばない。
 異常事態に、脳みそがパニックを起こしかけているのだ。
 それなのに体は、密着している赤木さんの体温とマルボロの匂いを勝手に感じ取っては、心を震えさせているのだから、オレは自分のダメさ加減に舌打ちしたくなる。

 赤木さんの心音が近く、雨音が遠い。
 こんな埃まみれ、傷だらけのオレなんかが、赤木さんの白いスーツを汚してしまうのではないか、なんて心配してから、いやいやもっと重大なツッコミどころがあんだろっ……! と自分にツッコミを入れる。

「ーーん? どうした、カイジ」
 呼びかける代わりに、派手な柄シャツの襟元を引っ張ると、赤木さんはすぐさま気づいてオレの方を見た。
 シャープな顔立ちを真正面から見ることになり、痛みのためじゃなく目眩を起こしそうになりながらも、怪我と混乱でうまく回らない舌を必死に動かして赤木さんに訴える。
「ぉ……ぉろ、し……」
「なに言ってんだ。自力で歩けもしねえくせに」
 呆れ声で言われ、グッと言葉に詰まった。

 それは……そうだけどっ……!
 でも、それにしたって……この運び方は、あまりにもーー

「こ、これ、おっ、ぉ、ひっ……」
「ん?」

 不明瞭な声でしどろもどろになるオレの口許に、赤木さんが右耳をずいと寄せてくる。
 色素のうすい、きれいな形の耳。状況を忘れてぼんやり見惚れてしまいそうになって、ハッと我にかえる。

 唇が触れてしまいそうなほど近寄せられたその耳に、オレはまるで内緒話でもするかのように、ほとんど音の出ない吐息のような声で、この運び方が俗になんと呼ばれているのかを吹き込んだ。

 赤木さんは数秒、固まったあと、ふはっ、と空気の抜けるような声を漏らした。
 赤木さんのそんな声を聞くのは初めてで、オレが驚いていると、赤木さんは肩を小刻みに揺らしながら、
「ーーそれじゃ、俺が『王子様』ってか?」
 そう言って、はははっ……! と心底可笑しそうに笑った。

 なにがツボにハマったのかさっぱりわからないけど、ガラじゃねぇ、とかなんとか呟きながら、赤木さんはオレを置いてけぼりにして、ひとりで笑い続けている。
 しばらくの間、ぽかんとそれを眺めていたオレだったが、いやいやいやいや、そうじゃねえだろっ……!! と、再度自分と、赤木さんにもツッコミを入れた。

 肝心なのは、そこじゃねぇだろっ……!
 ていうかこの場合、どっちかっつうと『お姫様』がオレであることの方が、明らかにおかしいわけでっ……
 美女でもなんでもねぇただのむさい男で、その上殴られてボコボコな顔の『お姫様』って、なんかもう、絵的にヤベェだろうがっ……!!
 どうして、先にそっちにツッコまねぇんだよっ……!!

「ん? そう言われてみりゃ、そうだな……」
 オレの主張にじっと耳を傾けていた赤木さんは、『言われて初めて気がついた』とでも言わんばかりに、細い眉を上げた。
 それから、オレの顔ーーボコボコに殴られて原型を留めていないであろう、むさい男の顔なんかを、やわらかい眼差しでじっと見て、
「……でもなぁ。なんかわかんねぇけど、お前が『お姫様』だってことには、なんも違和感なかったんだよなぁ」
 なんでかね、などと暢気な声で宣うものだから、またしても気が遠くなりそうになった。

 顔と体がカ〜ッと熱くなる。
 肌に落ちた雨の雫が、ジュッと音をたてて蒸発してしまうんじゃないかとさえ思ったけど、さすがにそうはならなかった。

 さっきまであんなに気にしていた、不甲斐ない自分への羞恥など、塵になって意識の外へ吹き飛んじまうほどの、圧倒的恥ずかしさ。
 今さらながら人目が気になって気になって、ままならない体で下ろせ下ろせと暴れるオレを、赤木さんは力強い腕でしっかり抱き直す。

「こら、余計なことばっか気にしてねえで、俺に任せてじっとしてろよ。……『お姫様』?」
 憎たらしい、やさしい声で、オレだけに聞こえるようにそう囁いて、赤木さんは本物の王子様みたいに、星の飛び散るようなウインクをしてみせたのだった。






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