どうしたいの 合鍵を渡す話




 鉄の階段を上る音がするほんの少し前から、アカギの意識は浅い眠りから浮上していた。
 雨音のせいだ。
 数時間前、アカギがこのアパートにやってきたときには小糠雨だったのが、つい十五分ほど前から急に激しさを増し、安普請の建物の壁に轟音を伴って打ち付けていた。
 アカギは古ぼけた扉に背を預け、通路の床に座って家主の帰りを待っていたのだが、雨が激しくなるにつれ、むっとした空気が水分を孕み、じんわり肌に纏わりつくようだった。

 屋内にいてさえ不快指数の高い夜だが、劣悪な環境で夜明かしすることに慣れているアカギは、特になにも感じなかった。むしろ、屋根があるだけで、屋外でも快適だとさえ思った。



 湿り気を帯びた空気の匂いを感じながら、アカギは目を閉じたまま、徐々に近づいてくる足音に耳を済ます。

 疲れや苛立ちの滲む、引きずるような足音。
 深夜だというのに、他の住人に対する配慮などまったく感じられないそれが、篠突く雨音に紛れながら、ゆっくりと上ってくる。

 やがて、鉄の板を踏む硬質な音が、コンクリの床を歩く音に変わり、すぐにピタリと止まった。
 自室のドアの前に座る人影に気づいたのだろう。固まって自分を凝視している家主の様子が、ハッキリ目に浮かぶようで、アカギは目を閉じたまま、浅く笑う。

 しばらくののち、またゆっくりと足音が近づいてくる。
 家主の呆れを纏っているような、緩慢な足取り。
 一歩、また一歩と距離が近づくたび、硬い床からアカギの体に微かな振動が伝わってくる。

 やがて、アカギのすぐ傍で足音は止まり、頭上から声が降ってきた。
「……こんなところで寝てんなよ」
 ため息まじりの低い声は、激しい雨音の中にあって、まるで霧雨みたいなやわらかさでアカギの耳に届いた。

 クスリと笑い、アカギは目を開けて男を見上げる。
「おかえり、カイジさん」
 苦い顔に向かってそう言うと、くっきりと太い眉がさらに寄る。
「……どけよ。風邪ひいちまう」
 ぼやくように言いながらポケットを探る男は、濡れ鼠になっていた。
 傘を持って出なかったのだろう。Tシャツもジーンズも、濡れそぼって色が濃くなっている。

 アカギが腰を上げると、カイジはポケットから取り出した鍵でドアを開けた。
 ふたりが中に入り、軋んだ音をたてて扉が閉まると、さっきまでの騒々しさが遮断され、嘘のように静かになった。
 古ぼけたドア一枚隔てた向こうから聞こえる、篭ったような雨音が、なおのこと、室内の静けさを引き立たせている。

 頭のてっぺんからから足のつま先までしとどに濡れそぼったカイジが三和土に上がると、くっきりとした足跡が残った。
「上がれよ」
 靴下を脱ぎ、部屋に上がったカイジに促され、アカギも靴を脱ぐ。
「降られちまったんだ?」
 アカギが声をかけると、カイジはタオルを取り出しながら、顎を引いて頷いた。
「思ってたより、雨、ひどくて……」
 俯きがちにそう言って唇を尖らせる仕草が、ひどく子供じみている。
 いじけたようなその表情を、もっと見たいとアカギは思ったが、頭を拭う青いタオルに遮られてしまった。
「ほら」
 カイジはアカギにべつの白いタオルを差し出す。
「降られちまったのは、お前も同じだろ」
 そんなに濡れてないから、とアカギは断ろうとしたが、濡れ髪の隙間から覗く黒い瞳に有無を言わさぬ強い意思を感じ取り、黙ってタオルを受け取った。

 長い髪をタオルで無造作にかき混ぜながら、カイジは部屋の奥へと歩いていく。
「お前、どのくらいあそこで待ってたんだよ?」
 投げかけられた質問に、アカギは記憶を辿りながら答えた。
「……三時間くらいかな」
「はぁ? ……お前アホだろ」
 カイジは呆れ声でズケズケと言う。仮にも自分を待っていてくれた恋人に対して吐く台詞ではないだろうが、アカギはそんな物言いなどまったく気にしなかった。
「ファミレスとか、漫画喫茶とか……雨凌げる場所なんざ、他にいくらでもあるだろうが」
 いやにしつこく、ぶつくさと小言めいたことを言い続けるカイジ。
 聞き流すようにしながら、アカギはなんの気なしに、
「あんたの部屋の前で待つの、嫌いじゃないから」
 と呟いた。

 瞬間、カイジがぐるりと振り返る。
 まじまじと凝視してくる黒い瞳を、不思議そうにアカギが見返していると、
「……嫌いじゃないって、なんで」
 低い声が、ぼそりと尋ねてきた。

 アカギは一瞬、答えに詰まる。
 なんで、と言われても、明確な理由なんて存在しない。
「なんとなく」と曖昧に過ぎる答えを返してから、アカギはちょっと考え、
「足音、聞こえるし」
 とつけ加えた。

 いつでもちょっとやさぐれているみたいな、特徴のある靴音が、階段を上り、徐々に近づいてくる。
 部屋の前に自分を見つけて面喰らったみたいに立ち止まり、呆れた様子でまた歩き出す。
 それらを足音で感じるのを、アカギは割と、面白く思っていたりするのだ。

 だから、アカギはそう伝えたつもりなのだけれど、カイジは髪を拭う手を止め、「……足音?」と訝しげに呟いた。
「お前、人の足音なんか聞くの趣味なわけ?」
「……べつに、趣味ってわけじゃない」
 意外そうなカイジの問いをそう否定してから、アカギはまた、ちょっと考え、
「『人の』じゃなくて、『あんたの』足音」
 と訂正した。

 カイジは一瞬、変なものでも食べたみたいな顔で固まった。
 すこしだけ丸くなったつり目をアカギが見返していると、やがて、カイジはうつむくようにして視線を逸らした。
「……妙なヤツ」
 そう、ぼそりと呟いて、荒々しく音をたてて部屋の中を歩くカイジの背を、アカギはタオルを持ったまま、ぼんやりと眺めていた。
 よくわからないけど、怒ったのだろうか、と思いながらその動きを目で追っていると、カイジは引き出しの中を引っ掻き回すようにしてなにかを取り出し、アカギの方を睨むように見た。

「……ほら、」
 ずいと突き出されたのは、銀色の鍵。
 キーホルダーもなにも付いていない、味も素っ気もないそれが、いったいどこの鍵なのか、なんて、聞かずとも明白で。

 日に灼けた手の中のちいさな鍵に、釘付けになったみたいにアカギはじっと見つめる。
 アカギの鋭い目の縁が、珍しく広がっているのを見咎めて、カイジがぶっきらぼうに吐き捨てた。
「……今日みたいな日に外で待ってたら、風邪ひくだろ」
 その言葉で、カイジが自分の体を心配しているのだということに、アカギはようやく気がついた。
 やけにしつこい問いかけも、怒ったように見えたのも、自分を気遣おうとしていたからなのだと知って、恋人のあまりの不器用さに、アカギは頬を緩ませる。

 なにがおかしい、とでも言いたげに、むくれた顔をするカイジ。
 鍵を差し出すその腕は、未だ雨の雫で濡れている。
 それを拭いもしないまま、自分のためにスペアキーを探し出し、風邪をひくからと言って渡そうとする恋人に、アカギは雨で冷えた体の底が熱くなるのを感じた。

 ためらわず手を伸ばし、鍵ではなく、カイジの腕に触れる。
 そっと引き寄せ、顔を伏せるようにして、手の甲に唇を寄せた。
 濡れた肌は憐れなくらい冷え切り、アカギはぬくもりをうつすように、ゆっくりと唇を這わせていく。
 ぴくり、と戸惑ったようにカイジの腕が揺れる。鳥肌が立っているのは、寒さのせいだけだろうか。

 手の甲から、手首、前腕へと進みながら、アカギが目線を上げると、息を飲むようにして自分の行動を見守る大きな瞳と目が合う。
「……っ、訳のわかんねぇヤツだな、お前は……」
 ぎこちなく目線を逸らしながら、苦り切った口振りで漏らすカイジ。
「こっちの台詞」
 短くそう言い返して、アカギはカイジの体を抱き寄せる。
 つり上がった目許はすでに仄赤く染まり、うすく開かれた唇は、わななく吐息を零している。
 その表情から、行動を通して自分の欲情が伝わっていることがハッキリと感じられ、アカギは腕により力を込めた。

 たかが、安普請のアパートの鍵ひとつ。
 金や権力なんかには心がまったく動かないくせに、ガラクタのようなそれをカイジから手渡されることに、たしかな喜びを感じている己を、アカギは自覚していた。

 体の重なっている部分から、カイジの拍動を感じる。
 冷たい雨に濡れた体でも、たったこれだけのことで、いとも簡単に熱せられてしまう。
 今、ほんのちいさな静電気でも起きれば簡単に発火してしまいそうなほど、大きくなってしまった体の熱をやや持て余しながら、アカギはカイジに問いかけた。

「あんたさ……、オレを、どうしたいの」
「は?」

 意味がわからない、とでも言いたげな声を耳許で聞きながら、アカギは抱きしめた体をそっとベッドに横たえる。
 さしたる抵抗もないまま、硬いマットレスの上に押し倒されたカイジは、恨めしげにアカギを見上げた。
「どうしたい……って、それこそ、こっちの台詞だろっ……」
 戸惑いと、ほんのわずかな期待に揺れる三白眼に睨まれ、アカギは息を漏らすようにして笑ってしまう。

 そういうことを口に出してしまうようなところに、どうにかされてしまいそうなくらい、自分は焚きつけられているのだけれど。

 どうやら自覚のないらしい恋人の、まごつく表情を見下ろしながら、アカギは静かに肩を揺らした。
「さぁ……、どうしてやろうかな?」
 悪戯っぽくそう囁くと、降るような口づけを浴びせながら、アカギはベッドの上に縫い止めた手の中から、そっと鍵を奪い取ったのだった。







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