駆けて、引く


 その姿を見ただけで、心臓が火を噴きそうな速さで脈打つ。
 でも、そんなことおくびにも出さずに、気のないフリをしてみせる。


 ともすると相手のもとへと全力で駆けて行きたくなる心を、体の中に無理やり押し留めるみたいに、一歩一歩、力強く地を踏みしめて歩く。
 それでも、やたらと早足になってしまうのは止めようがなくて、じわじわとしか縮まらない距離のもどかしさに舌打ちしたくなる。

 体を離れて心だけはもうとっくに相手のもとへ飛んでいってしまっていて、置き去りにされた体がようやく追いついた、というような奇妙な心地で、カイジはようやく、相手の目の前に立った。

「カイジさん」

 その低く涼やかな声に呼ばれるだけで、心が感電したみたいに痺れる。
 くらりと目眩がするのに、その感覚はやたら甘くて、相手のことで頭がいっぱいになる。

「……あっちぃな、今日」

 挨拶もなしに、ぼそりと呟く。
 昼下がりの街中は人通りが多く、雑踏の中は気温も高い。

 上気した頬を暑さのせいにして、ため息をつく。相手の鋭い眼差しが、夏の日差しのようにジリジリと肌を焦がしていく。
 カイジがTシャツの首許を引っ張ってパタパタさせていると、男は「久しぶり」と言って、すこし笑った。

 囁くような声は、人混みの喧騒の中で、きっとカイジにしか届いていない。
 密事を交わすようなその声が耳を掠めると、擽ったくて顔が緩みそうになるのを、カイジは頬の内側を噛んで耐える。


「行こうぜ」と素っ気なく声をかけ、カイジは男と並んで歩き出した。
 全身で相手を意識していても、敢えて隣は見ないまま。
 どうでもいいような街のようすに、気を取られているフリをする。

 本当は、街並みなんてすこしも見ていない。
 視界に入ってないはずの相手のことしか、見えてない。

 相手の存在、隣にいる空気、それらにチクチクと肌を刺されるような刺激を感じる。
 手を伸ばせば届くほど、呼吸を感じられるほど。
 こんなに傍にいるのに、心は飢えるように、相手に焦がれている。



 赤信号で、ふたりは立ち止まる。
「……カイジさん?」
 呼びかけられて、カイジは隣に目を向ける。
 刃物のように硬質で美しい目と視線が絡まり、一瞬、呼吸が止まった。
「どうしたの。なに話しても、うわのそらじゃない」
 会話に集中できなくて、生返事を繰り返していたことを見抜かれていたのだろう。
 静かな指摘に、カイジの心臓がひときわ大きく脈打った。
 だらりと垂らしたままの左手の、小指にそっと触れる体温。人いきれの中、誰にも気づかれぬまま、ふたりの温度がそこで混ざり合う。

「ひでえな、あんた。ーーオレのこと放っぽっといて、いったい、なんに気を取られてたの」

 台詞とは裏腹に、その声はなぜか愉しそうで。
 探るような視線に晒され、ゾクリと背を粟立たせながらも、カイジはハッと息を漏らし、片頬をつり上げて笑う。

「……面倒くせえヤツ。だったら、」
 声を低め、挑発するようにゆっくりと、
「ーーお前のこと以外、なにも考えられないようにさせてみろよ」
 言葉を紡いだ瞬間、信号が青に切り替わる。

 本当は離れがたいはずの小指の熱を、あっさりと振りほどくようにしてカイジは歩き出した。


 ーーずっと、お前のことだけしか考えてねえよ。
 なんてことは、口にも上らせないまま。

 さっきひと目その姿を見た瞬間から、心はとっくに、相手のもとへと駆けて行ってしまった。
 だから、体と言葉だけは裏腹に、どうでもいい風な態度を装うのだ。

 全力で駆けるばかりでは、能がないから。
 ちょうどいいところで引かなくては。

 駆けて、引く。
 自身の感情を乗りこなせるのは、自分しかいないのだ。
 ついでに相手を乗りこなせるのも自分しかいないと、きっと、お互いそう思っている。


 しかし、いつも最後には手綱を手放してしまうのが常で、相手に向かって一直線に暴走する本能を止める術など持ちあわせてはいない。
 駆け引きなど忘れて求め合う、その瞬間がたまらない。

 だからこそ、こんな遠回りをする。
 衆目のある場所で交わし合う、熱と視線。
 それすらも、このあとに続くふたりだけの時間のための、長い長い前戯のように感じられる。

 じっくりと焦らすように、並んで歩き、他愛もない会話を交わす。
 ときおり、相手の心を探り、そこに踏み込んでみる。

 ほんの少しだけ。戻ってこられないほど深いところまでは行かない。
 それは、このあとの甘い時間まで、大切に取っておくのだ。



 相変わらず、真昼の街は騒がしい。
 抑揚に乏しい声が、かき消されないようにーーおそらくはそれを口実にして、隣を歩く男が、カイジの耳に唇を近づける。

「いいぜ。――オレを挑発したこと、後悔させてあげる」

 吹き込まれる息と声が、燃えるように耳を熱くする。
 鋭い目の奥で、確かに相手は笑っている。とても愉しそうに。
 たまらなく蠱惑的なその視線を、受け流すようにカイジもまた、目を細めて男に笑いかけてみせた。

 あくまでも、なにげない風を装いながら。
 それでも、逸る気持ちに併せて歩調が速まっていくのだけは、互いに止められはしなかった。

 




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