猫・1 ケモ耳しっぽ注意


 にゃあ、というちいさな鳴き声が聞こえ、カイジは顔を上げた。
 声の主を探し、辺りを見回す。が、姿を見つけられない。

 さあっと風が吹いて、樹々の葉が揺れる。
 気のせいだろうか、それに乗じて、座っているベンチの後ろにある植え込みがガサリと音を立てたような気がして、カイジが振り返ると、ちいさなふたつの瞳と目が合った。

 くりくりとした金色の目をした黒猫が、植え込みの間から顔だけ覗かせて、カイジを見上げていた。
 こんなところに、どうやって入り込んだのだろう。
 不思議に思って、カイジはじろじろと猫の顔を見る。
 ぶしつけな視線に動じた風もなく、猫は爛々とした瞳で、品定めするようにカイジを見つめ返してくる。
 まるで刃物が斬り込んでくるかのように、あまりにも強く、まっすぐなその視線。
 いかな猫相手といえど、コミュ症の気があるカイジはたじろぎ、先に目をそらしてしまう。

 その一瞬の隙に、猫は姿を消したようだ。
 あとに残されたのは、微かに揺れる植え込みの緑だけ。
 呆気にとられたようにカイジはそれをしばらく眺めていたが、やがて腹の虫がぐうと鳴き、ため息をつきながら点滴を引きずって白い建物へと戻るのだった。






 ひどい嘔吐と腹痛に見舞われ、病院に駆け込んだのが昨日の夕方。
 結果、食中毒だと診断され、数日間の入院を余儀なくされた。
 常温放置してしまったカレーのせいか、はたまた、欲をかいて大量に持ち帰ったコンビニの廃棄が原因だったのか。
 思い当たる節々が走馬灯のように頭の中を駆け巡るなか、昨夜一晩、病院のベッドの上でうんうんと苦しみ続けたのだが、出るものは出尽くしてしまったのか、今朝起きると数時間前までの地獄がまるで嘘のように快復していたのだった。

 それでも流石に本調子とは言えず、点滴に繋がれたまま食事もまともに摂れない状態なのだが、そうは言っても腹は減るし、タバコも吸いたい。
 ウイルス性の食中毒だと感染の危険性があるため、大部屋でなく個室に入れられたのは快適だったけれど、入院費は痛いし、テレビや雑誌以外に娯楽もない。
 医者には絶対安静と言われていたけれども、あまりに暇を持て余しすぎて、カイジはこっそりと中庭へ抜け出していたのだった。

 だが、中庭にもこれといって面白いものはなく、ただ、一匹の黒猫と出くわしただけ。
 結局、あの退屈な病室に戻る他ないのだった。
 大欠伸をしながらエレベーターに乗り込み、ナースステーションの前をコソコソと通り過ぎて、宛てがわれた個室へと向かう。



 病室のスライドドアを開けた瞬間、カイジはちょっとビクッとして立ち止まった。
 個室であるはずの部屋のなかに、人影があったからだ。
 しかし、すぐにそれがよく見知った相手のそれだとわかり、カイジはホッと息をつくと、窓際に立って外を眺めている学生服の後ろ姿に声をかけた。
「よぉ。お前、来てたのかよ」
 大きな耳をピクリと動かし、少年はカイジを振り返る。
 真っ白な髪が、陽光を浴びて雲母のようにきらきらと光っている。
 きれいな総白髪に、開襟とスラックス姿の子供。
 ものすごく目立つ出で立ちだが、堂々とこの部屋にいるということは、ナースステーションの誰にも少年の姿が見えなかったということなのだろう。

 だが、それはそれとして、
「お前、念のためそれは隠しとけよ」
 ガラガラと点滴を引きずってベッドの方へ歩きながらカイジが言うと、少年はゆらりとしっぽを揺らし、眉を寄せた。
「……『それ』?」
「そ、れ」
 怪訝そうにしている少年の狐耳を示して言うと、ちいさな眉間に寄った皺がさらに深くなる。
「この病院に、オレの姿を見ることのできる人間なんて、あんた以外いないよ」
「……そうとは言い切れないだろうが」
 この部屋は個室だからまだいいとして、廊下やナースステーションの周りをその姿でぶらぶらされると、誰かしら見える者に見られてしまうのではないかと気が気でない。
 佐原のように、勘の鋭い人間だって世の中にはいるのだ。

 それに、ここは病院である。他の人間には見えないものが見えると騒ぐ患者が出たら、その人がべつの病気を疑われてしまうことになり兼ねない。

「他の患者の見舞い客だって、いるんだし」
 言いながら、カイジはベッドを挟んで向こう側にいる少年を睨むように見る。
 少年は鼻白んだような顔でカイジの視線を受け止めていたが、やがて、ニヤリと皮肉げな笑みに顔を歪めた。
「そういえば、あんたの見舞い客って、オレの他にいるの?」
「うるせえ」
 カイジは渋面になったが、それ以上なにも言い返せずに口を閉ざした。

 九ヶ月ほど前に夏風邪をひいたときには、少年は不器用ながらも懸命に介抱してくれたものだが、今回は終始冷静そのもので、カイジの症状が自分の手に負えないとわかると、すぐに病院へ連れていかれた。

 その上、仮にも入院患者であるカイジに対しても普段と変わらぬ減らず口を叩くし、健気なかわいらしさが消え去ってしまったことにカイジはややガッカリしたのたが、同時に、てきぱきと行動する逞しさに少年の成長を感じ、ほんのりと嬉しさも感じたのだった。
 一つ屋根の下で同じものを口にしているはずなのに、少年だけがケロリとしているのが、少々腑に落ちないけれども。そこはやはり、神さまと人間の違いということなのだろう。



 腕から伸びる点滴のチューブに注意しながら、カイジがゆっくりとベッドに上がると、少年もベッドサイドの丸椅子にすとんと腰掛けた。
 それからすぐに、なにかに気がついたかのように、端正な顔が不審げに歪められる。

「なんか……臭い」
 すんすんと空気の匂いを嗅ぎながら呟く少年に、カイジは口をへの字に曲げる。
「しょうがねえだろ……昨日、風呂入れてねぇんだから」
「いや……そうじゃなくて、」
 少年がなにかを言いかけたその時、病室のドアが二度、ノックされた。
『失礼します』
 女性の声。
「っ、ハイ!」
 なぜか慌てた様子で返事しながら、カイジは少年に耳を隠せと目配せする。
 カイジとの会話を中断させられた少年は、すこしムッとしたような顔になったが、渋々といった様子で、耳としっぽを隠した。

 ほぼ同時に、スライドドアが静かに開かれる。
「伊藤さん。お体の具合、いかがですか」
 早足できびきびと中に入ってきた看護師は、ベッドの傍に立ってカイジにそう問いかけた。
 どうやら、少年のことは見えていないらしい。
 看護師の視線の動きからそう判断したカイジは、なんとなくホッとしながら、「……悪くない、っす」と、口ごもるように返事をした。

「そうですか。でも、まだ調子は戻っていないはずですから、できるだけ安静にしていてくださいね」
 点滴の残量を確認しながら、素っ気なく言葉を投げる看護師を、カイジは横目でチラチラと見ながら、コクリと頷く。

 この愛想もなにもない女性看護師が、カイジはなぜか、入院当初から気になって仕方がないのだった。
 細身で黒髪のショートカット。大きなマスクで鼻と口は隠れてしまっているけれども、瞳は切れ長で、眉も細く、目許の印象だと、どことなく中性的な雰囲気がある。
 カイジの好みからは、ことごとく外れているはずなのだ。それなのに、この看護師が部屋にやって来ると、カイジはまるで条件反射のように意識せずにはいられなくて、変にソワソワしてしまうのだった。
 
 ベッドサイドから注がれるつまらなさそうな視線にも気づかずに、カイジは内心首を傾げつつ、ひとり汗をかきながら辟易していた。


 点滴の落ちるスピードを調節し、何事かをカルテに書き留めると、看護師はカイジに体温計を渡した。
「お熱、測っておいてくださいね」
 ニコリともせずにそう言い置いて、看護師は風のように部屋を出て行ってしまった。

 扉が静かに閉じ、ホッと息をつくカイジ。
 と同時に、今まで無言でベッドサイドの椅子に座っていた少年が、やにわにガタリと立ち上がったので、カイジは軽く飛び上がった。

「お、驚かすなよっ……! いきなり、どうしーー」
「帰る」

 カイジの言葉を遮るようにそう宣言して、少年は部屋の出口へと歩き出した。
「えっ? もう帰るのかっ……?」
 ひどく機嫌を損ねたかのようにむっつりとした顔の少年は、カイジの声に返事もせずに、スタスタと歩いて部屋の扉に手をかける。

 ……本当に帰ってしまうのか。
 カイジはひどくガッカリする。

 いったいなにが少年の気分を害したのか、さっぱりわからないカイジだったが、
「お前、明日も来るよなっ……?」
 慌てて、学生服の後ろ姿にそう問いを投げた。

 縋るような声の響きに、少年は一瞬だけ立ち止まったが、結局、一度も振り返らずに部屋の外へ出て行ってしまった。
 しかし、カイジの目には、少年が立ち止まったとき、微かに頷いたように見えたのだった。



 扉が静かに閉まったあと、ひとりきりに戻った部屋で、カイジはふたたび、ため息をつく。
 少年はこんな風に、急に不機嫌になることが度々あった。
 その理由がカイジにはいつもわからなくて、こんな風に困惑するばかりだ。

 しかし、どうやら、原因は自分にあるらしい。
 送られる恨みがましいような視線から、それだけは理解できるのだけれど、普段どおり振舞っているつもりで心当たりのまるでないカイジは、謝るにしてもいったい何について謝ればいいのかすらわからないのだった。

 思春期(?)とは、難しいものだ。
 いつものようにそう心中で呟いて、静寂と退屈をやり過ごすため、カイジはテレビを点けた。
 しばらく、ぼんやりとテレビを眺めたり、雑誌を捲ったりしてみたが、やはりどうにも退屈で、早く明日になって少年がやって来ればいいのに、などと何度も思いながら、カイジはその日の倦怠をやり過ごしたのだった。






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