甘くて、透き通る カイジさんが歌う話



 履き古したスニーカーが軽快な靴音を刻めば、両手に提げたビニール袋も賑やかな声でそれに応える。
 満開に近い桜の咲く道を、カイジは自宅に向かい、意気揚々と歩いていた。
 

 春うららという言葉がふさわしい、よく晴れた四月のある日。
 新装開店のパチンコ屋に朝から足を運んだカイジは、そこで稀に見る大勝を果たした。
 確変十回。信じられない気持ちでハンドルを握ったまま、豪華な演出の続く台を呆気にとられて眺めていたカイジだったが、積み上がったドル箱を換金する段になってようやくわが身に訪れた幸運にじわじわと実感がおよび、武者震いとニヤニヤをどうにか抑え込むのに苦労したのだった。


 パチンコ屋を出て一時間以上経った今だって、緩む頬を必死で引き締めているのだ。
 近所のスーパーで買い込んだビールの缶はズッシリと重いが、足取りは勝手にスキップを始めそうなほど軽く、財布とともに膨らんだ気持ちも萎むことはない。

 なんだか、歌でも歌いたいような気分だった。
 街行く人々の姿がなければ、本当に歌っていたかもしれない。
 今のカイジには、カラスの声や車の雑音もハーモニーに聴こえ、舞い散る薄桃色の花びらは、己を祝福する紙吹雪に見える。

 今日はバイトも休みだし、家に帰って昼間から酒をかっ喰らったって、咎めるものなど誰もいない。
 思う存分、ダラダラし放題だ。
 言いようのない開放感に、自然と歩調も速くなる。



 賑やかな通りを一本入ったところにある住宅街は、平日の昼間は閑散としている。
 しばらく歩いてから、カイジはこっそり辺りを窺って、ちいさな声で、数年前にヒットした歌のワンフレーズを口ずさんでみた。
 しかし、静かな路地で歌声は思ったよりも大きく響き、カイジは自分で自分の声にちょっとビクッとする。
 それでも、ぎこちなく周りを見渡して、確かに誰もいないことを確認してから、おっかなびっくり、歌の続きを口にした。

 ほとんど独り言のようなモゴモゴとした呟きは、アパートが近づいてカイジの気分が乗ってくるにつれ、すこしずつ大きく、ハッキリと歌の輪郭を成してくる。
 外で歌を歌うなんて、子供みたいだ。すこしの後ろめたさと心地良さに、脇腹がくすぐったくなる。
 曲の盛り上がりとともに声も高らかになり、サビに差し掛かる頃には、自然とカイジの口角も上がっていた。




 一番を歌い終えるのとほぼ同時に、アパートの前に着く。
 間奏を口笛で吹きながら、リズムを刻むように階段を駆け上がる。
 そのままの勢いで駆けるように自室の前へと辿り着き、ポケットから鍵を取り出す。両手の荷物のせいでやや手こずったが、その間も口笛は間奏をなぞり続けた。

 ようやく取り出した鍵を刺して回し、ドアを開けて中に入る。
 部屋の扉を開ける前に間奏は終わり、引き続き、二番を歌いながら部屋へ上がると、まっすぐにキッチンへ向かう。
 冷蔵庫の扉を開け、大量に買ったビールを入れる。スカスカだった冷蔵庫がビールだらけになり、カイジは満足げに目を細めてドアを閉めた。

 冷蔵庫に仕舞わずに残しておいた缶を手に取り、プルタブを上げる。
 そのまま勢いよく流し込めば、ちょっとぬるくなってはいたが、発泡酒とはまるで違う、まごうかたなきビールの喉越しが清々しい。
 カイジは思わず「かぁ〜〜っ!」と叫び、爽快感に満ちた気分で大きく伸びをする。

 テレビでも見ながらダラダラ呑もうと、缶を片手に歌の続きを歌いながら居間に足を踏み入れたところで、

「おかえり」

 ベッドの上に寝転んでいた少年が、肘杖ついたままそう言ったので、カイジの心臓が危うく止まりそうになった。

「……ッ!?」

 予想外の光景に声すら出せぬまま、ひたすら目を白黒させるカイジ。
 汗をかいたビールの缶をギュッと握りしめ、気持ちをどうにか落ち着かせると、少年に向かって叫ぶように言った。

「しげるっ……! お前っ、いったいどっからっ……、」
 ひっくり返った声に、しげるは淡々と
「窓から」
 と答える。

「窓から、ってっ……」
 慌ててカイジが室内に目を走らせると、カーテンが風に揺れているのが視界に入った。
「鍵、あいてたから」
 己の行動にフォローを入れるかのようにしげるは言ったが、肝心なのはどう考えてもそこじゃない。
 かと言って、ツッコミどころが多すぎてどこをどうツッコめば良いかもわからず、
「だ、だからってなあっ……」
 カイジはそう呟いたきり、黙るしかなかった。

 どんな風にして二階のアパートの窓から侵入できたのかは謎だが、玄関にしげるのスニーカーがなかったのは、恐らく窓に到達するまでの過程で邪魔になって、どこかに脱ぎ捨ててきたのだろう。

 猫みたいなヤツだ。
 驚き呆れて言葉も出ないカイジとは対照的に、しげるはくつろいだ様子で、ベッドの上に寝転んでいる。
 刃物のような瞳がどこか眠たげなのは、例によって徹マン帰りだからなのだろう。

 そんなに眠いなら、わざわざ窓から侵入するような疲れる真似せずに、どこか他のねぐらを当たればよかったのに。
 コイツのことだ、どうせオレのうち以外にも、当てはたくさんあるんだろうし……

 などと、恋人に対して物凄く野暮なことをカイジが考えていると、しげるがちいさく欠伸を漏らし、ぼそりと言った。

「そんなことより、さっきの」

 ……さっきの?
 意味がわからず首をひねるカイジに、しげるは抑揚のない声で言い直す。

「あの歌。もっと聴かせて」

 あの、歌。
 しげるの言葉を理解したとたん、カイジの顔がボッと音を立て燃えるかのように赤くなった。

「っお、お前、きき、聞い、」
 急に口をパクパクさせて吃りだすカイジの不審な挙動を気にした風もなく、しげるはこくりと頷く。

「もっと、聴きたい。聴かせて」
「……ッ……」

 度を超えた羞恥に、気が遠くなりかけるカイジ。
 しげるがなぜ自分の歌などを要求してくるのかまったく理解できず、幻聴ではないかと己の耳を疑ったが、
「すこしだけでいいから」
 と言い募られて、空耳でないことを思い知らされる。

 しげるの言動に自分をからかってやろうという意思が感じられるのなら、カイジも『嫌だ』と断固拒否できるのだが、ひたむきに耳を傾けるようにして待つその様子からは、そういった邪悪な意図がいっさい感じ取れない。
 それどころか、むしろ真摯とさえ言えるような真顔でじっと見詰めてくるので、しげるのそんな表情に慣れていないカイジはどうあしらえばいいかわからず、狼狽えてやや眉を下げた。

 まごついていると、
「早く」
 と急かされ、カイジは低く呻く。
 自分の歌などを聴きたがるしげるの思惑はさっぱりわからないが、歌わずに済ませられるような雰囲気でもなくなってしまった。

「かっ、金、取るぞっ……」
「いくらでも」
「本当にちょっとだけ、だからなっ……」
「構わないから」

 こんなやり取りさえわずらわしいとでも言いたげな、しげるのおざなりな返事に、カイジはいよいよ逃げることができなくなり、腹を決めるしかなくなってしまった。


 ひたと注がれる視線の重圧を避けるように目を逸らしながら、カイジは内心(くそっ……!)と舌打ちする。
 なぜ、こんなわけのわからないことになったのか。頭を抱えてその場に蹲りそうになるのをグッと耐え、ビールの缶を凹みそうなほど強く握りしめる。
 こうなりゃヤケだ、あとで絶対大金巻き上げてやる。
 心の中でそう吐き捨てて、カイジはスッと顔を上げた。


 しげるの方は見ないまま、噛みしめた唇をわずかに開く。
 最初の一音をそっと空気に乗せると、自分の耳が拾う自分の声にいたたまれないような気分になって、一気に顔に熱が集まってくる。
 それでも不思議と、喉や舌は勝手に次の音を紡いで、掠れた声を歌にしていく。

 歌うのは、ちょうど数年前の、この季節に流行った歌。
 歌があまり得意ではないカイジにも音程の取りやすい、キャッチーなメロディの曲だ。

 甘くて、透き通る。爽やかに明るいのに、どこか感傷的で切ない。
 この季節にぴったりの歌だ。


 カーテンが揺れ、窓から春の風が入ってくる。
 成人男性にしてはこころもち高めのテノールは、戸惑いを隠せないように揺れてはいたけれど、おずおずと、不器用に、ていねいに音を拾っていく。
 ふたりきりの静かな部屋に、その歌声はやさしく響いた。




 短いサビだけをなぞると、カイジはそそくさと歌い止めた。
 軽く咳払いし、『これでいいのかよ』とばかりに、恨めしげな目をしげるの方へ向ける。

 すると、しげるはベッドの上で肘枕をついたまま、うっすらと白い瞼を閉ざしていた。
 カイジは羞恥も苛立ちも一瞬忘れ、大きく目を見開く。

 眠っているわけではないが、いつも纏っているピリッとした空気までも和らぐほど寛いだような姿があまりにも珍しく、カイジがぽかんとしていると、やがて切れ長の目がうすく開き、きれいな色の双眸がカイジを捉えた。

「好きだ」
「……はぁっ!?」
「あんたの歌」
「う、た……? あ、あぁ、うた、歌か」

 びっくりした。急に倒置法使うなよ……
 カイジは大きく息をつく。
 突拍子もないしげるの発言に、ドキドキとうるさい心臓を落ち着けるように深呼吸していると、目ざとくその様子を見咎めたしげるが、重たげな瞼のままクスリと笑った。

「もしかして、あんた自身のことだと思った?」
「えっ? ん、ンなわけあるかっ……!」

 図星を指され、慌てて否定するカイジだったが、しげるはクククと肩を震わせる。

「そんなわかりきったこと、今さら言う必要ないでしょ」

 さらりと、それこそ歌うように軽やかにそんなことを言われ、カイジは今度こそ誤魔化しようのないくらい動揺して、固まってしまった。

 耳や首筋まで真っ赤に染め上げるカイジとは対照的に、しげるは涼しい顔をしていて、どうして爆弾発言をした当の本人が平然としていて、オレがこんなに恥ずかしい思いをしなきゃいけないんだと、理不尽な怒りが湧いてくる。

 しげるは愉快そうに唇を撓めているが、穏やかな雰囲気は変わらない。
 しげるのこういう発言はいつも、天然なのかわざとなのか、どうにもカイジには判別しかねるのだ。
 だから怒るタイミングを見失って、調子を狂わされる。

 涙目でううと唸ってから、ヤケ気味に大きくビールをあおるカイジ。
 だがそこでふと、あることに気がついてピタリと動きを止めた。

 しげるは、『あんたの歌』が好きだと言った。
 それはつまり、この曲が好きだという意味ではなく、自分の歌声が好きだと、そういうことなのだろうか……?

 なんだか気になってきて、カイジはしげるの方をチラリと見る。
 まさかそんな、たいして上手くもない自分の歌を好きだなんて、しげるが言うはずもないと思うけれど、でも……
 真相はどうなのか、はっきりとしげるの口から聞いてみたいような気がするけれど、下手なことを訊けばまた恥ずかしい思いをすること請け合いだし、ここは黙っているに限るっ……のか……?

 グダグダと考え込んでいるカイジを余所に、しげるは猫のような大欠伸をして、体を伸ばした。

「ふふ、悪くない気分だ。これで寝酒があれば最高だな」
「オレの歌は子守唄かよ……つうか、寝酒ってお前……」

 カイジが顔をしかめると、しげるは機嫌良さげに喉を鳴らす。

「あんた、良いもの持ってるじゃない。ひとくち、ちょうだい」
「アホ」

 しげるの要求を今度はバッサリと切り捨てて、カイジは缶に残ったビールを、変にそわそわした気分とともに、一気に喉の奥へと流し込んだのだった。





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