うすもも



 白い指先が、白い文字に触れる。
 深い緑の板面に書かれた文字の羅列をなぞるまっすぐな指を、横目で眺めていた。

 本日最後の授業は国語だった。
 教師が残していった整った文字たちを、ひとつひとつ黒板消しで擦り消していくオレの隣で、赤木は所在なさげにチョークの文字を指でなぞって遊んでいた。

 湿り気を孕んだ風が、カーテンを大きく膨らませている。
 遠くから雷鳴が聞こえる。じきに、夕立がやってくるだろう。

 こういう日に限って、日直に当たってしまった。
 クラスメート達はさっさと部活に行くか帰るかしてしまい、教室に残っているのはオレと赤木だけだった。
 待っている必要はないと言ったのに、赤木は聞く耳持たず、ここに残っている。
 コイツはなぜか、いつもオレと一緒に帰りたがる。また、あらぬ噂が増えるかもしれないと思うと、気分が今日の空みたいに重く垂れ込める。

 今にも欠伸を漏らしそうな横顔をチラリと見る。
 血管の透けそうな白い肌。
 すっきりと通った鼻筋。
 大きな瞳と、羽ばたくような長い睫毛。
 形のよいうすい唇。
 見れば見るほど、嫌みなくらい美形だとつくづく思う。
 白い昼顔の花を髣髴させるような、儚げな横顔だった。……こうして黙ってさえいれば。

 クラスメートの女子たちが、赤木の容姿を羨む会話を交わしているのを耳にしたことがある。
『見た目だけは、羨ましいくらい綺麗だよね』
 その意見には激しく同意できるはずなのに、嘲笑まじりのささめき声に、なぜか苛立ちを覚えたことを思い出した。


 文字をなぞるのに飽きたのか、細い指先は、黒板をパレット代わりに、白と赤のチョークをくるくると混ぜ合わせ始めた。
 薄い桃色をした蝶の鱗粉のような粉に染まる、透きとおった指先。
『白魚のような』という言葉がふと頭をよぎって、ぞっとしない気分になった。それは女性に使う形容だ。
 雑念を振り払うように、ひたすら黒板消しを滑らせる。

 国語教師の筆圧はやたら強く、消すのにひどく骨が折れる。
 舞い上がる白い粉をもろに吸い込んでしまい、涙目で咽せ返りつつも黙々と手を動かす。

 黒板に書かれているのは、激しい恋の歌だ。平安時代の和歌だと教師が言っていた気がする。
 授業中、息止めに夢中になっていたオレには、内容を半分も理解できなかったけれど。

 力を込めて一心不乱に文字を擦り消していると、やがて、チョークを混ぜている赤木の手許に辿り着いた。

「手、どけろ」
 素っ気なく言うと、長い指がぴたりと止まる。
 羽のような睫毛をゆっくりと瞬かせたあと、赤木はオレの顔を見た。

「なぁ」
「……なんだよ」
「前から、気になってたんだけど」
 そう言って、赤木はチョークに汚れていない左の人差し指で、自分の頬をトントンと叩く。
「その、傷さ。いつ、どうやってできたの」
 左頬にある傷のことを言っているのだということに気づいて、唐突さに思わず面食らう。
 おまけに、赤木はいつもの締まりのない笑顔に頬を緩ませてはおらず、意図のつかめない真顔だった。
 ますます調子を狂わされながら、オレは口を開く。
「……覚えてねぇよ。昔のことだから」
 前の学校で、ひとりで意味もない賭事に精を出していたときの傷であることは確かなのだけれど、いったいいつ、どんな馬鹿をやってこさえた傷なのか、ハッキリと覚えてはいなかった。
 前の学校での日々は、オレにとっての黒歴史なので、無意識に記憶から抹消しようとしているのかもしれない。

 素っ気ないオレの返事に、赤木はちいさなため息まじりに「そっか」と呟いた。
「見たかったな……その傷ができるとこ」
 猫のような双眸が、間近で覗き込んでくる。
 赤木は上目遣いになると、きれいな三白眼になる。
 よく泣くせいか、いつもしっとりと湿っている瞳。
 吸い込まれるような淡い色を無言で見返していると、長い睫毛がふっと伏せられた。
「いや……そうじゃないな……」
 違和感を拭おうとするように視線を彷徨わせたあと、ふたたび淡い瞳でまっすぐにオレを射抜く。
「オレが、傷つけてみたかった」
 薄桃色に染まった白い指先が伸びてきて、オレの左頬をなぞる。
 そこにある古傷が疼くような感覚に、瞼が引きつった。

 遠くから轟く雷鳴。激しい雨の気配をもたらす不穏な風が、白い髪をふわりと靡かせる。
 息を潜めてオレの頬の傷をなぞる赤木は、相変わらずニコリともしない。

 赤木は時折、こういう表情を見せるときがある。
 こちらが最も見せたくない深層に鋭く切り込んでくるような、そんな表情。
 昼顔の花のような儚さは完全に鳴りを潜め、代わりに爪と牙を鋭く研ぎ澄ませた獣が顔を覗かせたかのようだった。

 心がざわめく。
 皮膚の下、体中に張り巡らされている毛細血管が、瞬間的に膨張する感覚。
 速くなる血流が、潮騒のようにざわざわとうるさい。
 それは命を賭した賭事に臨むときの、あのヒリつく感覚によく似ていた。
 コイツといると、賭事をしていないときでも、ふいにあの感覚を呼び起こされることがある。

 純真な子どもみたいにきれいな瞳の奥に、狂気がちらつく。
 もし。
 もし本当にこの傷が、コイツにつけられたものだったなら。
 そうしたら、オレはぜったいに、そのことを忘れたりはしなかっただろう。

 想像しただけで、背筋がゾクリと粟立つ。
 言い知れぬ衝動を密かに嚥下するように、オレは唾を飲み込んだ。
「……やめろよ」
 顔を背けながら言うと、赤木はおとなしく手を引っ込めた。
 危うい心のざわめきを払拭するように、高めの体温の移った頬を、手の甲で乱暴に拭う。
 薄い桃色の粉が、手の甲を仄かに染めた。

 相変わらず感情の読み取れない赤木の顔をちらと見て、オレは軽く舌打ちする。
「これから……」
「?」
 長い髪を揺らして首を傾げる赤木を、睨むようにして続ける。
「これからいくらでも、そういうチャンスあんだろ」
 オレの言葉に、大きな目が瞠られていく。
 まるでゆっくりと氷が溶けていくような、その変化がなんだか忌々しくて、口調がつっけんどんになる。
「……お前みたいなマヌケ野郎に、簡単に傷つけさせるつもりもねぇけどな」
 取ってつけたような憎まれ口が、我ながら情けない。

 だが、赤木はオレの胸中など預かり知らぬ顔で、
「うん。そっか」
 と、大きく頷く。
 いったいなにが嬉しいのかは不明だけれど、いつものアホみたいに明るい笑顔が、しばらくぶりに戻ってきた。

 ホッとしたような惜しいような、複雑な気分を消し去るため、オレはやや乱暴に黒板消しを動かし始めるのだった。




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