パーソナルスペース 捏造がひどい 伊藤くんがコミュ障気味






『あなたは、パーソナルスペースが広いんだね』

 養護教諭はそう言って、皺に埋もれた目を細めた。

 前の学校にいた時、オレは保健室の常連だった。
 毎日のようにバカなことをしては満身創痍でやって来る無口な生徒に、呆れ顔ひとつ晒さず手当てを施していた彼女は、今思い返すとさすがはプロだったと思う。

 オキシドールの染みた脱脂綿で頬の傷を拭われ、歯を食いしばって痛みを耐えている最中、彼女は唐突に先の台詞を口にした。
 パーソナルスペース、という言葉を聞いたことがなかったオレは返事もせずにただ沈黙していたが、彼女は気にせず話し続けた。

『あなたは無自覚みたいだけれど、私が手当てのために近づくと、まるで野生の動物みたいに緊張するでしょう』

 彼女のいうとおり、まったくそんな自覚はなかった。
 が、確かに、オレは誰かとベタベタ馴れ合うのが苦手だった。

 たまらないのだ、そういう雰囲気が。体が反射的に逃げ出してしまうあたり、ほとんどアレルギーに近い。
 そういうわけだから、オレには所謂『友達』と呼べる存在はいなかった。
 命懸けの遊びという他者からは到底理解されない性癖を持たなかったとしても、生まれついての己の性分のため、ぼっちという結果は変わらなかっただろう。

 彼女は体を引き、ニッコリと微笑んだ。
『つまり、あなたは私のいるこの距離に、他人を近づけたくないって思ってるってこと。その範囲が、パーソナルスペース』

 そして、オレはきっとその範囲が広いのだと言われた。
 その時はいまいちピンとこなくて、はぁ、と気の抜けた返事を返したような気がする。

 鈍い返事に彼女はもう一度ニッコリ笑うと、褒めるわけでも貶すわけでもなく、まるでフォローを入れるみたいに、言った。

『まぁ、狭ければいいってものでもないけど。……でもあなたは、もうちょっと周りに気を許してもいいと思うけれどね』


 パーソナルスペースが広い、ってことは、それだけ他者を寄せ付けたくないと思ってるってことだ。
 すなわちその養護教諭は、遠回しにオレがコミュニケーション不全だってことを言いたかったんだろうと、今になればわかる。

 クラスに仲良くつるんでるような友達がいる様子もなく、毎日傷だらけで保健室へとやって来る生徒がいたら、養護教諭としてはそりゃあアドバイスのひとつもしなけりゃならない気分になるだろう。

 オレの母親よりはるかに年上であろう、優しげなその養護教諭は、孤独な少年の繊細な心が傷つかないよう言葉をオブラートに包んで伝えてくれたけど、『パーソナルスペース』っていうオブラートは些か小難しすぎて、当時のオレにはなにが言いたいのかさっぱりわからずじまいだった。

 ただ、パーソナルスペースって言葉だけは、なんとなくずっと覚えていた。












 背中にかかる重みが急に増して、オレは思わず呻いた。
 背骨と背骨の重なる場所から、じんわりと伝わる体温。

 子供みたいに体温の高いそいつはオレの背中に全体重を預けながら、「腹減った」などとぼやぼや呟いている。

「……下ろすぞ」
 よせよ、と言って止めるようなタマではないことはわかっているので、前屈みに曲げた腰をゆっくりと元に戻していく。

 宙に浮いていた相手の足が地面に着くと、背中越しに絡めあった両腕をさっさと解く。
「あれ、なんで? 次、お前の番だろ」
 大きな目を軽く見開き、首を傾げる相手を睨み、俺はボソリと言った。
「足、上げるのやめろって言ってるだろ」

 出席番号順、二人一組でやらされる体育の準備運動。
 馬跳びや前屈などをこなし、一番最後に用意されたメニューがこの、背中合わせで互いの体を担ぎ合う組体操だ。

 コイツは背中に担ぐと、決まって足をまっすぐ上に伸ばす。そうするとこっちの腰への負担が増え、バランスも危うくなるから止めろと再三注意しているのに、この猿のようなクラスメートはいっかな覚えようとしない。

「だってお前、考え事してたから」
 今日もそんな言い訳をして、相手は唇を尖らせた。
 前の学校のことをぼんやりと思い出していたのは確かだが、だからと言ってコイツにそんな風に拗ねた態度を取られる筋合いはない。

 深くため息をつくと、相手は細い眉を上げてオレを指差した。
「幸せが逃げるぞ」
 誰のせいだと思っていやがる。
 ため息ごときで幸せが逃げるというなら、お前と同じ学校の、同じクラスに偶然転校なんかして、出席番号が前後になったその日から、オレの幸せなんてものは逃げっぱなしじゃないか。

 相手はオレが心中で並べ立てている悪態なんかにまるで気がつかない様子で、口角をあげて目を瞬かせている。
 なんだか締まりのない顔だ。普通にしてればそこそこ見れる顔立ちをしているというのに、どうしてコイツはいつも、バカな犬みたいに笑っているのだろう。

 相手はオレに背を向けて、振り返ってくる。
「ほら、次。なんなら、お前も同じことしていいぜ」
 真面目な顔でふざけたことを言う相手にオレは黙ったまま、その背に背をくっつけた。


 背中越しに肘を曲げ、腕を絡める。
 そのまま相手が前屈みになると、相手の背骨の形に沿って、オレの背骨がアーチ状に伸びていく。
 普段伸ばさない部位の筋が伸ばされ、体が一段、軽くなったような感覚を覚える。

 視線の先には、だだっ広い空。疎らに白い雲の浮かぶ、初夏の高い青空が広がっている。
 周りにいるクラスメートの声が、すこし遠く感じる。
 大きく息を吸い込んで、オレは目を閉じた。



 体操着の布越しに、じんわりと伝わる相手の体温。
 かつてこれが、とても嫌だった時期があった。


 相手に背を預け、相手から背を預けられる。
 他愛のないこの準備運動が死ぬほど嫌いで、しょっちゅう体育をサボっては、ひとりで危険な賭けごとのような真似をして、保健室の世話になっていた。
 前の学校にいたときの話だ。


『あなたは、パーソナルスペースが広いんだね』

 養護教諭の言葉を再度、思い出す。
 今は。
 今は不思議と、この準備運動がそんなに嫌じゃない。
 あまり、積極的に認めたくはないことだけれど。



 目を開いて、抜けるような空を見る。

 ともだち。

 ボソリと呟くと、背中の下で相手が間延びした声を上げる。

「なんか言ったかー? 伊藤ー?」

 やっぱりバカみたいなその声に返事をせず、オレは非力な腹筋に力をこめる。
 それから、さっき相手にされたのと同じように、華奢な背中にオレの全体重を預け、青い空に向かって両足をまっすぐに伸ばしてみた。






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