きらきら 痒い


 自分の名前は、特に好きでも嫌いでもなかった。

 ごく平凡な苗字との対比で、特異さの際立つ漢字二文字。それに対してなんの感慨も抱いたことなかったし、これから先抱くこともないだろうと思ってた。

 ただ、初対面の人間に名乗るたび、読みを説明しなくちゃいけないのが面倒なのと、説明したあとに判で押したような反応を見る羽目になるのには、正直、辟易していた。

 変わった名前だねぇ。……どういう意味?

 誰もが皆、薄っぺらな笑みを顔に貼り付け、問いかけてくる。大した興味もないくせに。

 親がどういうつもりでこの名前をつけたのか、オレは知らない。聞いたことがあるのかもしれないが、忘れた。

 だから率直に「知りません」って答える。そうする以外の選択肢、オレは持ち合わせていない。
 当然、会話はそこで途切れる。ぷつりと。か細い糸が、音もなく切れるみたいに。

 そうして訪れた瞬間的な静寂の中で、あからさまに変化していく相手の表情も、判で押したかのようだった。
 気まずそうな、あるいは、不愉快そうな表情。
 せっかく、社交辞令で興味のあるフリをしてまでボールを投げてやったのに、投げ返すどころか受け止めもせずにスルーされた。不意打ちでそういう仕打ちを食らったときの、困惑とわずかな苛立ち。
 見たくもないそれを、まざまざと見せつけられてきた。
 この名を与えられて生きるようになってから、おそらく何十回と。

 でも、しょうがないじゃないか。自分の名前に籠められた意味なんて、オレは知らない。
 一度くらいは親に聞いたことがあるのかもしれないが、昔のことだからか、忘れてしまった。
 本人でさえその程度の執着しかないことを、興味津々って風を装って訊いてきて、その癖、思い通りの反応がなかったら、掌返すように化けの皮を脱ぎ捨てて、こちらを責めるような顔をする。
 胸糞悪くなるような思いだった。所詮、お前らなんて赤の他人じゃねえか。本当は、オレの名前の由来になんてまるで興味ないくせに。そう、心の中で唾を吐きかけてきた。

 そもそも会話が続かないのは、名前のせいじゃない。
 オレ自身の性質の問題なんだから、きっと他の話題を接ぎ穂にしたって、なんにも変わりはしないのだ。
 そんなことはオレにだって、重々わかりきっている。
 だから、どうか皆、オレのことなんて放っておいてくれないか。

 ……などと、心の中で懇願してみても、それが相手に通じるわけもなく。
 これから先の人生、はじめましての挨拶をするたびに、ずっと同じことを繰り返すのだと思うと、正直、この名前とともに生きていかなければならないことに、ややウンザリすることもあった。





「カイジ?」

 その人は、それまで会ってきた無数の人々と同じ風にオレの名を呼んだ。
 語尾の上がる呼び方。相手に聞かれる前に、今まで何十回と口にしてきた答えを先回りして呟く。
「開く、に、司る……、司会の司、って書きます」
 その人はちょっと目を丸くしたあと、片頬を吊り上げた。
「そうか」
 とだけ言って、琥珀色の液体をひとくち、音もなく啜る。
「名は体を表すってヤツだな」
 カラン、と氷の涼しい音に乗せるように、思いもよらない言葉が耳に入ってきて、オレは思わずその人の顔を凝視した。
 その人はオレの視線になど気づいた様子もなく、別段おかしいことを言ったという様子もなく、すましたような横顔でグラスを傾けていた。

 ーーそれって、どういう。

 ぬるくなったビールで喉を湿してから声を発したのに、その問いはずいぶん、おっかなびっくりな風に掠れていた。
 鋭い双眸が流れるようにオレを捉え、低い声が告げる。

「どうもこうも……、そのまんまの意味なんだがな。
 自分で道を切り開いてきた結果じゃねえのか。お前が今、ここにこうしているのは」

 まるで用意されていたみたいに淀みなく、淡々と。
 当たり前の答えを述べるように、素っ気なく乾いた声でそれだけ言って、その人は口を閉ざした。

 ゆっくりと、白いビールの泡に目を落とす。
 今まで出会ってきた誰一人として、オレの名前についてこんなことを言ってきた人間など、いなかった。

 グラスを包む手、その指にぐるりと巻き付いている、棘のある鎖のような傷。
 それができた原因の出来事も、オレはなにひとつこの人に話しちゃいない。

 とある雀荘で偶然出会って、相手から声をかけられた。
 裏社会に片足突っ込んだ者なら誰もがその存在を知っている『神域の男』。ふたりで会うのはこれが初めて、過去のことを話せるほど踏み込んだ関係であるはずもない。
 それなのに、この人はまるで、なにもかも見通しているみたいだ。

 不思議だった。
 この指の傷は、無様に負けた証。だから、嫌いだった。
 目に入るたび、悔しさと憎しみに腸を引き裂かれそうになるから。失ったもののことを、嫌が応にも思い出してしまうから。

 だから、忘れていた。無様に負けたのは自分だが、目を逸らさずにこの傷を受け入れたのもまた、自分だったのだということ。

 自分で道を切り開いてきた、結果。
 今こうして、生きてここにいる。
 そんな風に考えたこと、今まで一度もなかった。

 親がどういうつもりでこの名前をつけたのか、オレは知らない。聞いたことがあるのかもしれないが、忘れた。
 この世に生を受けたときに与えられたこの名前は、今の自分とあまりに乖離し過ぎていたから。
 だから、意識的に忘れた。忘れたかったのだ。
 ずっと忘れたまま、今まで生きてきたんだった。

 そのことを、この人に名前を呼ばれた今、なぜか思い出した。


 そっと、目線を横へ向ける。
 オレの中に引き起こした変化など預かり知らぬような顔で、相変わらず、マイペースにグラスを傾ける横顔を、ぎこちなく盗み見た。

 この人のことを、もっと知りたい。なんでもいいから、会話がしてみたい。ふと、そんなことを思った。
 過去にあったことを話したら、この人はどんな反応を返すのだろう。どんな、言葉をくれるだろう。

 それはなんだかえらく久しぶりの感覚で、密かに自分自身に驚いていると、やがて、その人は空になったグラスを微かに揺らし、オレを見て浅く笑った。

「そろそろ出ようか、カイジ」

 自分の名前は、特に好きでも嫌いでもない。
 だけど、この人の唇から零れ出るその三つの音の連なりは、なぜだか気高いもののように、きらきらと光っているみたいに思えてならなかった。






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