ゴミ出し・3




 夏の終わりの太陽に焼かれ、不摂生続きの体が蝋みたいに溶けていくような錯覚を覚えながら、カイジはゴミ捨て場にゴミを投げ捨て、緩慢に踵を返した。
 昨晩呑み過ぎたせいで、かったるくてしょうがない。歩いて一分もかからない距離にあるアパートの部屋が、果てしなく遠く感じられる。

 鉛のような体を引きずるようにして、生欠伸を繰り返しながらダラダラと歩いていると、ふいに甲高い声で後ろから呼び止められた。

 眉を寄せてノロノロとカイジが振り返ると、ひとりの女性が小走りで近づいてくるのが目に入る。
 ド派手な英字のロゴ入りの、ショッキングピンクのTシャツを着たその女性の顔にまったく見覚えがなく、カイジが首を傾げている隙に、女性は軽く息を切らしながらカイジに近づいてきた。

「ちょっとあなたッ……!! ゴミ出しの時間は朝八時までって決まってるのよッ……!!」
 カイジと目が合うや否や、開口一番、女性はそう怒鳴る。
 真っ青なアイシャドウの塗りたくられた目はキリキリとつり上がり、真っ赤な口紅の塗りたくられた唇は不愉快そうに歪められている。

 どうやら、この近所に住まう女性にゴミ出しを見られていたらしいと、二日酔いのぼんやりした頭でようやくカイジが状況を把握する頃には、既に女性はかなりヒートアップしてしまっていた。

「あなた、このアパートの住人でしょッ……!? 困るのよねぇ、マナーのなってない人が多くってっ……!!」

 しまった。厄介なのに捕まってしまった。
 内心舌打ちするも、時すでに遅し。

 今まで溜めに溜めてきた鬱憤を晴らすかのように、矢継ぎ早に文句をぶつけてくる女性にうんざりしながらも、カイジはとりあえず、おとなしく相槌を打っておく。
 話の内容など当然右から左であるが、キンキンと甲高い声は二日酔いの頭にガンガンと響く。
 耳に飛び込んできた女性の声が頭蓋骨の中で反響し、長いエコーのようにしつこく残っているように感じられて、カイジは軽く顔を顰めた。

 太陽は相変わらず真上からジリジリと照りつけ、玉のような汗が全身に浮かんでは流れ落ちる。
 だが、今燃えに燃えている女性は暑さなどまったく気にならないようで、顔中から噴き出す汗で化粧をドロドロに溶かしながらも、淀みなく口を動かし続けている。
 確かにルールを破ったことに関しては、多少は申し訳ないと思う気持ちもあるけれど、この炎天下で延々と愚痴のような文句を聞かされ続けていれば、そういう気持ちも瞬く間に干上がってしまうというものだ。

(あーーあ……早く終わんねぇかな……お説教……)
 死んだような表情でひたすらそれだけを願っていたカイジだったが、あまりに長い女性の説教についぼーっとしてしまって、何度目かの欠伸を噛み殺すタイミングが、わずかに遅れてしまった。

 二度目の『しまった』が心をよぎるが、やはり覆水盆に返らずで、ふわりと漏れた眠たげな声を聞き咎め、女性はますます目を剥いてカイジの方へ詰め寄ってきた。
「ちょっとあなた、聞いてるのっ……!?」
 ……『あなた』がほとんど『あぁた』に聞こえる。
「これだから最近の若い人はっ……!! まったく、親の顔が見てみたいもんだわねっ……!!」
 ものすごい剣幕で捲し立てられ、至近距離に近づいた女性の体から、香水だか芳香剤だかわからないような強く甘ったるい香りがプンと臭い立つ。
 勘弁してくれ。吐きそうだ。
 二日酔いの具合の悪さに容赦なくとどめを刺すようなその臭いに、若干のめまいを覚えながらカイジが一歩退いた、そのとき。

「カイジさん」

 凛とよく通る涼やかな声が、女性の金切り声の隙間を縫うようにして、カイジの耳にスッと届いた。

 よく聞き慣れた声。反射的に顔を上げ、声のした方を見る。
 そしてそのまま、カイジはあんぐりと口を開けてフリーズした。

 アカギだ。
 窓の向こうに、アカギがいる。
 ……いや、問題なのはそこではない。

「まだ、出さなきゃいけないゴミ、あるんだろ。……さっさと戻ってきな」

 上から見下ろされているせいか、いやに高圧的に聞こえる声でそんなことを言う白い男は、カイジが部屋を出る前と同じ格好……
 つまり、上半身が素っ裸のまま、窓際に立っているのだ。

 あまりのことに頭が真っ白になり、言葉を失うカイジ。
 女性の説教がピタリと止んでいることにすら気づかずに、ただただ馬鹿みたいに間抜け面を曝しているカイジを余所に、アカギの右手が動いてタバコを口許へと運ぶ。
 アカギが女性には一瞥もくれぬまま、深々と一服するのを呆気にとられたまま見届けたところで、己の横顔に注がれる視線に気づいたカイジは、ようやくハタと我に返った。

 慌てて隣を見遣ると、女性がなんとも言えない表情で、舐めるようにジロジロとカイジの顔を見つめていた。
 盛大に眉を顰め、おっかなびっくり窺うような表情の下に、下世話な好奇心がありありと透けて見える。
 ぶしつけに過ぎるその目つきに、カイジはにわかに焦り始めた。

(あ……? な、なんだよその目はっ……!)

 心を激しくざわつかせながらその視線から逃れようとするが、女性は一度食らいついた獲物は離さないとでもいうように、カイジの顔を見開いた目で凝視している。

(よせっ……! やめろよっ……! その……何か……おぞましいモノを見るような目……! やめろっ……!)

 カイジは心中で喚き散らすが、そんな女性の反応も当然といえば当然のことである。
 なにせ『親の顔が見てみたい』と言った直後に、親ではなくまさかの恋人ーーそれも同性のーーを、目の当たりにする羽目になったのだから。

 実際問題、この短いやり取りだけで、アカギがカイジの恋人であることに女性が勘付いたとは言い切れない。
 だが、なにしろ女性は、アカギが上半身裸でカイジの部屋にいて、「さん」づけとはいえ明らかに下の名前で呼びかけ、あまつさえゴミ出しの話などしている現場を、確と目撃してしまったわけである。
 ご近所の噂やゴシップに対し、異様なまでに鋭い嗅覚を発揮するこの年ごろの女性が、ふたりの間の只ならぬ関係臭を察知しないはずがない。

(こんのアホ……っ!! よりにもよって、なんでそんな格好で……っ!!)
 チクチクを越えてグサグサと突き刺さってくるような視線の痛みに耐え兼ね、カイジの怒りの矛先は元凶であるアカギの方へと一直線に向かう。
 だがカイジが顔を上げ、視線で射殺さんばかりに窓の方を睨め上げたときには、真っ白な煙だけを残し、アカギは忽然と姿を消していた。
(……ヤローーッ……!!)
 怒りに拳を握りしめたまま、ぷるぷると震えていたカイジだったが、聞こえてきた大きな咳払いの音にハッとして、ふたたび隣を見る。

「と、とにかくっ……!! 今日のところは大目に見ますけどねっ、次からはキチンと、時間を守って出してくださいよっ……!!」
 いつのまにかカイジから大きく距離をとっていた女性は、なぜか敬語でそんなことを言い捨てると、逃げるようにしてそそくさとその場を離れていった。

 なにか言葉をかける隙もなく、風のように去っていった女性の消えた方向を、ひとり残されたカイジはしばし、ぽかんと見つめていた。
 ……が、やがて、疾風のごとく過ぎ去った一連の出来事にじわじわと理解が及んでくると、声にならない悲鳴を上げ、蒼白になって深く頭を抱え込んだのだった。





[*前へ][次へ#]

66/75ページ

[戻る]