ゆめ(※18禁)・3


 窓の外で、カラスが嘲笑うかのようにギャアギャアと騒いでいる。
 つい今しがた起きたばかりのカイジは、ベッドの上で呆然と虚空を眺めていた。


 只今の時刻、午前八時ちょうど。
 奇妙な下半身のベタつきによる不快感でカイジは目を覚まし、そののち速やかに掛布をめくって状況確認を終えたところだった。

 やらかした……。
 この歳にもなって、夢精。

 はぁぁぁ〜〜っ……と深く深くため息をつきながら、頭を抱える。
 度し難い。あまりにも度し難いが、紛れもなくこれが現実であることは、濡れた下着の冷たさが嫌というほど証明している。

 今はなんの欲もないと、眠る前は確かにそう思っていた。
 だがこういう状況になって思い返してみれば、バイトが忙しくなってからの二週間、一度たりと自分の手で抜いていなかったということに、カイジは思い至ったのである。

 早い話が、溜まっていたのだ。
 あまりの疲労に処理することもできぬまま抱え込んでいたものが、久々の休みにありつけた解放感で、無意識のうちに暴発してしまったわけである。

 まるで思春期の子供のような有様だが、カイジの頭痛の主な要因は、実はこれではない。
 夢精したという事実だけならまだしも、カイジは記憶しているのだ。
 淫らな夢の内容を、事細かに、すべて。
 そのことが、カイジを深く深く項垂れさせていた。

 夢に出てきた男。
 あんな夢を見てしまうほど、自分があの男を欲しているのだと思い知らされたようで、火を噴くように顔が赤くなっていく。
 忙殺される日々の中、ただ『顔が見たい』だとか、そんな風に思っていた己の深層にある欲をまざまざと見せつけられたみたいで、カイジは強く頭を掻きむしった。

(次会うとき、あいつの前でいったいどんな顔すりゃいいんだよ……っ!?)

 ……しかしまあ、ともかくも、こうやって落ち込んでいたってなんの解決にもなりはしないし、股の間のひんやりしたぬめりが消え去るわけでもない。

 憂鬱な気分で、カイジはのろのろとベッドから降り、浴室へと向かう。
 久々によく寝足りたというだけでは説明がつかないほど、体はスッキリと軽く、それがまた、カイジの足取りを重くした。








 脱衣所でハーフパンツと下履きをまとめて脱ぎ捨てると、なんともいえない独特の臭気がむわりと立ち込める。
 軽く顔をしかめつつ、カイジは汚れものを持ち、風呂場のガラス戸をガラリと開けた。

 すぐに目を覚ましたから、出したものは乾いていない。
 とりあえず水でサッと流して、あとは洗濯機に任せよう。

 風呂場の床にしゃがみ込み、カイジはカランの蛇口を捻る。
 溢れ出した冷たい水に下履きの汚れた部分を浸すと、広範囲に渡ってベッタリと付着していた汚れが勢いよく漱がれていく。
 透明な水に混ざって床を流れていくそれを眺めながら、カイジはぼんやりと思う。

 不幸中の幸いなのは、あの男の滞在中にこんな無様な状況にならなかったこと。
 異様に鋭いヤツのことだ。ひとつ屋根の下にいたなら、どんなに巧妙に隠し立てしたって、まず看破されてしまうだろう。

 カイジはホッと息をつく。
 こんな、下半身が丸出しの状態で風呂場の床にしゃがみ込み、中坊のように夢精した下着を洗う情けない姿など。

「あいつに見られなくて、よかった……」
「『あいつ』って、誰のこと?」



 ピシリと。
 音を立て、空気が凍りついた。

 蛇口から流れる水もそのままに、しばらくの間、カイジは石のように固まっていた。
 乾ききって張り付きそうな喉に、無理やり唾を飲み下す。

 空耳であってほしい。いやぜったいそうに決まってる。
 まるで狙い澄ましたような。こんなタイミングで、来るわけ……

 心臓をバクバクいわせながら、限界まで見開いた目をギ、ギ、と上げ、恐る恐る鏡の中を確認する。

 ……果たしてそこに映っていたのは、自分の背後、風呂場の入り口に立つ白い男の姿で。
 感情の読み取れない鋭い目と鏡越しに目が合った瞬間、カイジの頭の中は、真っ白になってしまった。

「……!! ……!! ……!!」

 言葉など、なにひとつ出てこない。
 蒼白な顔で、金魚のように口をパクパクさせるカイジ。

 化け物を見てしまったホラー映画の主人公さながらに、驚愕で塗り固められた表情で凍りつく。
 だが、背後の化け物ーー赤木しげるの姿がゆらりと動いたことで、カイジはようやく我に返った。

「うわああっ……!! くっ、来るなあっ……!!」

 断末魔のように叫びながら立ち上がり、シャワーヘッドを引っ掴むとアカギに向けてノズルを捻る。
 勢いよく噴射される冷水。だが、アカギはなぜか浴びせかけられる冷たい水を避けもせず、風呂場に踏み込んでくる。

 予想外の行動に動転したカイジは思わず後ずさってしまい、降り注ぐシャワーの雨の中、ゆっくりと近付いてくる白い男に、じわり、じわり、と追い詰められていく。
「く、来るなって言ってんだろうがっ……!! それ以上近付いたら……、ッ!!」
 ダンッ、と大きな音をたて、壁についた腕の中に囲まれる。
 シャワーヘッドがカイジの手から滑り落ち、硬い床の上で一度跳ねたあと、のたうつ蛇のようにふたりの足許で暴れ回っていた。

「や……、嫌、だっ……!!」
 絞り出すようなその声は、怯え、震えているように響く。
 間近で感じる視線から顔を背けながら、カイジはTシャツの裾を思いきり引っ張って情けない己の姿をすこしでも隠そうとしたが、すぐに両手首を掴まれ壁に縫い止められてしまう。

「カイジさん。なに、してたの?」

 耳に唇を近づけ、吹き込むように囁かれる。
 その声に滲む、隠しきれない愉悦。

 カイジの頬が、一瞬にして真っ赤に燃え上がる。

 見られた。
 見られてしまった。

 青天の霹靂のようにカイジを襲った、最悪の事態。
 完全に平常心を失ったカイジは、アカギの顔を見られずうつむいたまま、反射的に吐き捨てる。
「おっ、お前が悪いっ……!! お前がっ……、ぜんぜん、来ないからっ……! だ、だから、こんな……ッ!!」
 自分でもなにを言っているのかわからぬまま、口は勝手に動いてアカギを責める。
 本当はずっと顔が見たかったのに。待ち焦がれていたのに。
 そんなことなどすっかり忘れてしまったかのように、無我夢中でアカギを罵るうち、己の情けなさにカイジの目には涙の膜が張り、段々と声も潤んできた。

 アカギは黙ってカイジの悪口を受け止めていたが、カイジの体が羞恥に震え始めると、鳴り続けるシャワーの音に紛れるような声で言った。
「カイジさん……あんたもしかして、オレの夢、見たの……?」
 カイジの肩が、ビクリと大きく跳ねる。
 なぜ、なんの脈絡もなくアカギがいきなりそんなことを言い出したのか?
 さっぱりわからないカイジは、ひどく混乱し、取り乱しそうになる。

 だが、カイジが気づいていないだけで、その理由は明白だった。
『情けない姿を見られたこと』ではなく、『アカギがずっと来なかったこと』を、深い混乱の中感情に任せてカイジは責め続けていたのだ。
 しかし、この流れでそれは明らかに不自然だし、聡いアカギが勘付かないわけがない。

 しかし完全に冷静さを欠いているカイジは、そんなことにすら気づくことができず、必死に首を横に振ってそれを否定しようとする。
「ちがっ……違うっ……!!」
「違わねぇだろ……あんたオレの夢で夢精したから、こんな格好で風呂場なんかにいたんだろ……?」
 舐めるような視線が、下へ下へと這わされる。
 静かな声が確信的な響きを増し、カイジは耳まで真っ赤な顔で、駄々をこねる子供のようにアカギに噛み付いた。
「違うっつってんだろっ……!! クソがっ……!!」
 言葉の強さと裏腹に、カイジの声は涙混じりの、グズグズと頼りないものだった。

 すこしの沈黙。うつむくカイジの口から発せられる震える荒い吐息だけが、シャワーの音に重なる。
 軽いため息のあと、アカギはふたたび、口を開く。
「オレのせい、なんだろ? 悪かったよ。ちゃんと謝るから、こっち向いて、カイジさん」
 やさしく掻き口説くような口調。滅多に聞くことのできないそれに、カイジは潤んだ目を見開いた。
「なぁ、カイジさん……」
 普段が淡々としている分、その声は鼓膜をとろかすような甘さで響く。
「……」
 カイジは怒ったような顔で俯き続けていたが、アカギが微動だにせず自分を見つめているのを痛いほど感じ、やがて渋々顔を上げる。
 だが、チラリとアカギの顔に目をやった瞬間、待ち受けていたかのように唇を塞がれた。
「ん……ッ!」
 目を白黒させるカイジの口腔内に、ぬるりと生温かい肉塊が侵入してくる。

 ああ、これは、夢と同じ感触だ……

 絡まる舌に、カイジの背筋がゾクリと震える。
 わずかに身じろぎ、形ばかりの抵抗を試みるものの、やわらかく敏感な粘膜を舐め回されてあっという間に体から力が抜けていく。

 涙が出るほど、気持ちのいいキス。本当はずっとずっとこうされたかったのだと、認めざるを得ないような。
 思考など碌に働かないまま、カイジはぼうっとした頭で、淫靡な口づけに身を委ねていた。

 たっぷりと味わい尽くした唇を最後に軽く食み、名残惜しげにアカギが離れていく。
 力なく目を伏せて乱れた息を整えながら、カイジは思い出したように、ふたたびアカギを責めた。
「嘘……っ、あや、まるって……」
「うん……、ごめん……」
 とりあえず謝ってみせるアカギだが、すこしも悪びれた様子がない。
 そもそも、この男に鍵を渡していなければこんなことにはならなかったのにと、カイジは激しく後悔し、アカギに八つ当たりする。
「も、返せっ……鍵、返せよぉっ……うぅ、う……」
「それは、無理」
 きっぱりと断るアカギを、カイジはキッと睨めつける。
 だが、濡れそぼった白い髪から透明な雫を滴らせながら、自分を見つめるアカギの瞳には、予想していた嘲りも、失笑の色も滲んでおらず。
 ただ、欲望だけが淡い瞳の底、ぐらぐらと煮え滾っているようだった。

 今、初めてまともに顔を見るまで気づかなかった。
 まるで、飢えた獣のような。

 その表情に、カイジは不覚にも心臓をぎゅっと鷲掴みにされる。
 こいつは、ずっとこんな顔をして、オレを見つめていたんだろうか?

 髪から滴る水で濡れた薄い唇を開き、アカギは低く言葉を紡ぐ。
「カイジさん……したい。ずっと、あんたとしたかった……」
 欲望に掠れた声。静かな吐息は、はっきりとした熱を孕んでいて、カイジは息を飲んだ。

 反則だ……そんなの。
 そんなの。
 そんなの、は……オレだって一緒だ。

 恋人と長いこと離れていたのは、自分だけではなかったのだ。
 そんな、当たり前のことに気づかされてしまったカイジは、もうアカギを責めることも、詰ることもできなくなってしまった。

 自分だけを刺し貫くように注がれる視線にクラクラしながら、カイジはほとんど溶けかかった理性と矜恃を総動員し、尊大に顎を上げてアカギを見返す。
「お、まえの……」
「……ん?」
「お前、のせいで、こんな……情けないことになってんだっ……、責任、取れっ……!
 ち……中途半端なやり方しやがったら、承知しねぇからな」
 余裕なく小刻みに震え、とても挑発とは言えないようなその声を受け、アカギは真顔のまま、劣情に湿った声で答えた。
「夢なんかよりずっとすごいの、してあげる……」



 這々の体でカイジが辿り着いた、今日は久々の休み。
 浴室の中からは、止める間も惜しんで放置されたシャワーの音が、中から響く声や音を掻き消しながら、ずっと鳴り続けていた。




 
 

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