ずっと・5




 カイジは男に言われたとおり、目を閉じてゆっくり十数える。
 その間、外からは物音ひとつ聞こえてこず、しんと静まり返っていた。

 十まで数えると、目を開け、なんどか深呼吸してから、そろそろとドアノブに手をかける。

 
 緊張した面持ちでそっとドアを開け、わずかな隙間からこわごわと外を覗けば、そこには見慣れた安普請のアパートの、古ぼけた廊下が広がっていた。

 ーー戻ってきた。

 安堵のあまり、カイジは大きなため息とともにしゃがみ込む。
 今さら膝が笑い始めて、情けない気持ちになりつつも、震える足を叱咤して、カイジはトイレの外へ出た。

 ドアを閉めようとして、さっきまで一緒にいた男の、終始にこやかだった表情を思い出す。
 その残像を振り払うように首を振ると、カイジは静かにそのドアを閉めた。



 短い廊下を歩いて居間へのドアを開けると、獣姿で眠っていたはずの少年がすぐそこに立っていたので、カイジは飛び上がって驚く。
「よ、よぉ。お前、起き、て……」
 そんな言葉など無視して少年はカイジに近づくと、すんすんと鼻を鳴らした。
「どこ行ってたの? ……他の狐のにおいがする」
 まるで浮気を咎めでもするかのような不機嫌な声に、カイジはなぜか焦り、取り繕うように言う。
「未来のお前と、会ってきたんだっつうの……!!」
「未来の、オレ……?」
 少年の細い眉が、不審げに寄った。
「お前に言伝があるって、呼び寄せられたんだよっ……!」
 説明しながら、ひょっとして男はかなりすごいことをしていたのではないか、ということに、カイジは初めて気がついた。
 過去から人を呼び寄せるなんて芸当、木の葉を万札に変化させて人を騙すなどというしょうもない悪戯ばかりしている少年には、到底できそうもない。

 果たして本当にこの先、少年はあの男のような立派な神さまになれるのだろうか?

 一抹の不安に黙りこくってしまったカイジを、少年は睨むように見る。
「で? いったいなんだったの、その言伝とやらは」
 少年に問われ、ああ、そうだったとカイジは笑顔になり、答える。
「神さまと番になった人間は、不老不死になれるんだとさ。そう教えてやってくれって言われたよ」
 ぴくり、と三角の耳が動き、切れ長の目が丸く見開かれた。
 今まで見たことのないほどの驚きを示すその表情を、物珍しさにカイジがまじまじと見つめていると、ややあって、
「知らなかった……」
 少年はそう、ぽつりと呟いた。
「聞いてるはずだって、未来のお前は言ってたぜ。人間に興味がなさすぎて、忘れてるだけだって」
 男から聞いたままにカイジが伝えると、少年は細い顎に手を当て、記憶を手繰るような表情を見せる。
「そういえば、上からそんな話を聞かされてた気も……」
『上』とは、おそらく、えらい神さまのことなのだろう。
「そんな大事な話、忘れてんなよ。不真面目すぎんだろ、お前」
 呆れた顔でカイジは言い、それからニヤリと笑う。
「なかなか格好良かったぞ、未来のお前。出雲のときの成長した姿より、また一段と」
 聞いてもいないのにそんなことをしみじみと語るカイジに、少年はパタリと耳を伏せて面白くなさそうな顔をする。
「落ち着いてて、威厳があってさ。一目で、すげぇ神さまなんだってわかったよ。それにーー」

 それに、人間の、嫁さんだっているしな。

 そう言いかけて、カイジは口を噤んだ。
 それを今、伝えてしまうのは、なんとなく、少年のためにならない気がしたのだ。
「……ま、あとはお前の頑張り次第だな」
 黙ったまま自分をじっと見つめる少年に、カイジは悪戯っぽくニッと口角を上げる。
「好きな人、いるんだろ? 聞いたぜ」
「……」
「お前も隅に置けねえよな。いったい、どこで知り合ったんだよ? あ、もしかして参拝客とか?」
「……」
「今度、オレにも紹介……ヒッ」
 完全に調子に乗っていたカイジは、少年の放つドス黒いオーラに短い悲鳴を上げ、慌てて話題をすげ変えた。
「そ、それにしても、神さまの恋って前途多難だよなぁ〜。不老不死を受け入れるなんて、相当な愛がないとできることじゃねえだろうし」
「……愛?」
 カイジの言葉に反応して、少年の耳がぴんと立つ。
「愛さえあれば、あんたは不老不死を受け入れられるのか?」
 急に目の色の変わった少年に迫られ、カイジはビクッとして思わず後ずさった。
「お、おう……? いやまあ、おそらく……?」
 たじろぎながら答えたあと、カイジはハッとする。
「あっ! でも、オレならたぶん、ってことだからな! その……お前の好きな人もそうかっていうと、それはまた、べつの話で……って、聞いちゃいねえ!」
 真剣な顔でなにかを考え込んでいた少年は、最後のツッコミに反応し、ようやくカイジの方を見た。
 思い煩っていたなにかを振り切ったように口角を上げ、少年はカイジの頬に手を伸ばす。

「覚悟してなよ。必ず……」
『だから、そのときが来たら、お前さんも腹をくくれよ』

 そう言ったときの男の表情が、目の前の少年と重なり、カイジは不覚にもドキリとする。
 ようやく笑顔が見られたことにホッとしつつも、頬を撫でる指先にどぎまぎしながら、カイジは少年に訊いた。
「かっ……、覚悟って?」
 だが、少年はその質問には答えず、なにかに気がついたように、カイジの腕をじっと見つめていた。
「ん? どうした?」
 首を傾げるカイジの顔を見上げ、少年はカイジの頬に触れていた手を、下へと移動させる。

「たとえ未来の自分自身でも、好いた相手にベタベタ触られるのは、つまんないもんだね」

 カイジに聞こえないくらいのちいさな声でそう呟くと、少年はカイジの服の袖口についていた白い獣の毛をつまみ上げ、ふっと吹き散らした。






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