ずっと・3




 ドアを開けると、そこはテレビや本棚の置いてある、ごく一般的な家庭の居間のような空間だった。

 雑然としているようで、本やCDなどは几帳面に並べられており、それなりに掃除も行き届いているようだ。
 初めて見る部屋なのに、カイジはなぜか、親しみを覚える。自分の部屋の散らかり具合に、どこか似ているからだろうか。

 正面には窓があり、そこに寄りかかっている人物が、ドアの開く音に反応し、カイジの方を見た。

「ーーよぉ」

 低い声でそう言って、ゆっくりと口角を持ち上げる、その男。
 カイジは、あっと声を上げた。

 深雪の髪と肌、轟々と燃え盛る焔の瞳。
 目尻や口許には、冷たそうな印象を和らげる、柔和な皺が刻まれている。
 着ている狩衣の色は輝く白で、括り袴は夜と昼のあわいの空のような、妖しく美しい紫色をしている。
 そして、頭の上にある三角の獣耳。大きく開いた純白の扇のようにも見える、しっぽの数は九本。

 優々としてこの上なく典雅な容姿に、カイジは完全に圧倒され、呆けたように口を開けたまま見入っていた。
 男はカイジの反応に、鋭い目許を和らげる。
 すると、途端に雰囲気がやわらかくなり、親しみやすさが溢れてきた。
「そんなとこに突っ立ってねえで、もっとこっちへ来な」
 静かな声には、なぜかそうしなくてはならないと思わせる強制力があり、扉の向こうから自分を呼んでいたのはこの男だったのだと、カイジは直感的に理解する。

 請われるままに近づくと、ますます玲瓏なその姿をなんとなく直視できず、カイジは思わず目を逸らしてしまう。
「あ、あんた……、誰だ?」
 裏返った声でカイジが問うと、男は美しい眉を上げた。
「おいおい、頼むぜ。お前さんが手っ取り早くわかるようにって、こんな七面倒くさい格好してるのによ」
 白い耳をやや下げてため息をつかれ、カイジは弾かれたように顔を上げる。
「や、やっぱりお前なのかっ……!?」
「ん……?」
 態度を豹変させるカイジに、男はぱちぱちと瞬きをする。
「いつの間に、そんなに成長できるほどの力を手に入れたんだ? ま、まさか、また他の神さまからっ……!?」
「……おい。ちょっと落ち着けや、兄ちゃん」
 焦ったような顔で詰め寄るカイジを手で制し、男は乾いた咳払いをひとつする。
「あ〜、お前の考えはちと違う。オレはお前が今一緒に暮らしてる、あのガキじゃねえ」
「えっ」
 カイジは目をまん丸にする。

 てっきり、神無月のあの夜のように、少年が神さまの力を使って一時的に大人になり、自分を驚かそうとしているのかと思っていた。
 しかし、男は違うと言う。
 確かに、中身があのプライドの高い少年なのだとしたら、仮にカイジを欺くためだとしても、自分のことを『あのガキ』呼ばわりなどできるはずがない。

「まぁ……まったく違うっつうわけでもないんだがな……」
「?」
「あー、ややこしい話はいいや」
 男は煩わしそうな顔でバリバリと頭を掻いたあと、カイジの顔を見てニッと笑った。

「俺はな、お前がよく知ってるあの神さまの、未来の姿なんだ。
 ここは、未来の世界なんだよ。俺が、お前を過去から呼び寄せたんだ」

「……」
「ん……どうした? 固まっちまって」
 呆気にとられ、黙りこくってしまったカイジの顔を、男はひょいと覗き込む。
「!! なっなんでもっ、ないですっ……! ちょっと、驚いただけでっ……!!」
 比類なく端麗な顔が間近に迫り、我に返ったカイジは飛び退くようにして後ずさった。
(し、心臓に悪い……っ)
 真っ赤な顔でドキドキとうるさい胸を押さえるカイジを見て、男は頬を掻きながら苦笑する。
「まぁ……こんな話、いきなり信じろなんて無茶だよなぁ」
 落ち着いて深呼吸してから、カイジは顔を上げて男を見た。
「い、いや……、信じます。あんたの言うこと」
「おっ?」
 男の白い耳がぴんと立つ。
「これは、あいつの仕業ってわけじゃなさそうだし。それに……ぜんぜん違う神さまに見えるけど、あんたには微かに、あいつの面影がある」
 自分の考えを整理しながら、ゆっくりと紡がれるカイジの言葉に、男は顔を綻ばせた。
「その格好も似てるしな。オレが状況を飲み込みやすいように、わざわざ正装してくれたんだろ? その……、ありがとう、ございます……」
 ぼそぼそとカイジが礼を言うと、男は九本のしっぽをわさわさと揺らして笑う。
「堅っ苦しいのはナシでいこうや。お前のよく知ってるガキだと思って、接してくれて構わねえから」
「はあ……」
 そう言われても、と思いつつ、カイジは改めて部屋をぐるりと見渡す。
 聞きたいことは山ほどあるが、とりあえず、思いついたことから口にしてみることにした。
「あんた、ここに住んでんのか?」
「そうさ。もう、ここも長くなるなぁ」
 男は懐かしむように目を細める。
「お前と住んでたあのアパートは、とうの昔に取り壊されちまったみたいだぜ」
「えっ……そうなのか……」
 カイジは眉を下げた。
 ボロいし汚いし壁は薄いしで、家賃が安いことを除けばなにひとついい所のない住まいだが、今、自分と少年が確かに暮らしている場所が未来にはなくなっているのだと知ると、なんだか妙に寂しい気持ちになる。

 そういえば、未来のオレはいったいどうしているのだろう。
 気になりはしたが、それを聞くのは怖い気がしてカイジが躊躇っていると、代わりに男が口を開いた。
「お前さんを呼び寄せたのは、他でもねぇ。ガキの俺に、ちょっくら伝言が……あって……」
 腕組みをしながら喋っていた男が、ふいに自分の顔を真顔でじっと見つめてきたので、カイジはたじろいだ。
「で、伝言って……?」
「その前にひとつ、個神的な頼みがあるんだが」
 深刻にすら聞こえる真面目な声に、カイジは思わず唾を飲み込む。
 この荘厳な神さまに、いったいどんな頼みごとをされるのかとハラハラしているカイジに向かって、男は重々しく告げた。

「ちょいと俺を、撫でてみちゃくれねえか?」
「……は?」

 カイジの目が点になる。
 そんなカイジの様子を気にした風もなく、男はカラリと笑った。
「いや〜、最近、人間に撫でられてねえからさ。なんだかどうも、物足りなくてな」
 寄りかかっていた窓枠から離れ、男はカイジのすぐ傍に立つと、カイジとそう変わらない背をちょっと屈めた。
「ほれ」
 そう言って目を閉じ、撫でやすいように頭まで垂れてみせる男に、カイジは慌てる。
「な、撫でるって……?」
 もしや、犬や猫にするみたいに、自分を撫でろということなのだろうか?
「ん? どうした?」
 目を閉じたまま、従順な犬のようにカイジの手をじっと待っている男の姿に、カイジは深く混乱する。
 どうも、自分の思い違いではないらしい。
「ち、ちょっと、その姿じゃ抵抗がっ……」
 やっとのことでカイジが絞り出した要求に、男は眉を寄せ、自分の身なりに目を落とした。
「ん、そうか? しょうがねえな……」
 次の瞬間、男の体が白く光り、その輪郭が溶け崩れる。
「っ……!!」
 眩しさにカイジが目を細めている間に、その光は像を結び直し、眩んだ目がようやく慣れた頃、カイジの前に一匹の白狐が姿を現していた。
『どうだ? これで撫でやすくなっただろ?』
 そう告げる声は、確かにさっきの男のものだ。
 だがその言葉も耳に入らないくらい、目の前の優美な獣にカイジは視線を奪われていた。
 
 その体は獣姿の少年よりもずっと大きくしなやかで、細長い面立ちにも、凛とした獣らしい鋭さがある。
 テレビや図鑑で見たことのあるキツネという動物とよく似てはいるが、それでいて、間違いようもなくべつの生きものだということがハッキリわかる。
 それは深い知性を宿す真紅の瞳や、尋常ならざる力の顕現である九本の太い尾、そしてその尾の先端までをも包み込む、光を放つような白銀の毛並みを見れば、どんなに不信心な者にも、自ずと理解されることだろうと思われた。

 この神獣を見れば、少年などまだまだ子狐なのだということがよくわかる。
 魂でも抜かれたかのようにぼうっとしてしまったカイジに、白狐はクルルと喉を鳴らした。
『ぼさっとしてねえで、ほら、早く』
 そう言って、さっきの男と同じように目を閉じ、白い頭を差し出す白狐に、カイジはまだ畏れの気持ちを抱きつつも、そろそろと手を伸ばす。
 冷たい色の毛並みに触れると、滑らかな触感が指先に伝わる。
 その感触は、カイジにも非常に馴染みのあるものだった。少年の名残りを感じ、途端に懐かしいような気持ちになりながら、カイジは白狐の頭を撫でる。

 ぎこちないカイジの手つきにも、神獣はおとなしくされるがままになっていた。
 少年は撫でられるのを嫌っていたはずなのだが、まるで性格が変わってしまったようである。
 いったいどんな紆余曲折を経てこんな風に変化したのだろうかと、カイジはつくづく疑問に思う。

 もっと、とせがむように、白狐はカイジの掌に自ら頭を押し付けてくる。
 あまつさえクルクルと喉まで鳴らし始める神獣の姿に、キツネってネコ科の動物だっけ? などと、カイジはぼんやり考えていた。




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