夏風邪・3
スーパーマーケットでハンバーグの材料を買い込み、ふたりはアパートに帰宅した。
「ちゃんと手、洗えよ。風邪、流行ってんだから」
靴を脱ぎつつ、ガサガサの声でそんなことを言ってから、
「……ん? そういや、神さまって風邪ひくのか……?」
ひとりで首を傾げているカイジを無視して、少年は隠していた狐の耳としっぽを出し、さっさと部屋に上がる。
「腹減った。早く、ハンバーグ」
居間に入るなり、欠食児童のように催促する少年に、カイジは渋い顔になる。
「わかったって……ったく、たまには自分が作れよな、居候の癖して……」
ぶつくさ言いながら台所へ向かいかけたカイジだったが、急にぐらりと足許をフラつかせ、縺れた足でたたらを踏んだ。
ドサリ、とカイジの手から荷物が落ちる音に反応して、少年の大きな白い耳がピクリと動く。
「どうしたの?」
「ん……ちょ……っと、クラっときて……」
モゴモゴと独り言のようにそう言いながら体勢を立て直すと、カイジは床に落ちたビニール袋を拾った。
「よかった……卵……割れてねえ……」
袋の中身を確認してホッとしたように息をつくカイジの横顔を、少年はじっと見る。
心なしか、いつもより疲れが色濃く出ているように見える。
少年は口を開いたが、なんの言葉も出て来なくて、結局、もとの通り口を閉ざした。
そんな少年の様子には気がつかぬように、カイジはビニール袋をしっかりと提げ直し、ハンバーグを作るため台所へ入っていく。
カイジの後ろ姿が消えた扉を、少年はしばらくの間、黙って見つめていた。
「旨いか?」
対面で頬杖をついて尋ねてくるカイジに、少年は口いっぱいのハンバーグを咀嚼しながら頷く。
「れも、へひゃっふあ」
「お前な……ちゃんと飲み込んでから喋れよ……」
呆れ顔でコップに注がれた麦茶と共に口の中のものを綺麗さっぱり飲み下し、少年はふたたび口を開く。
「でも、ケチャップが少ない」
「買い忘れてたんだって……悪かったよ……」
大きなハンバーグの上にちょこっと乗っかった赤に不満顔の少年を見て、カイジは可笑しそうに肩を揺らした。
「なに、笑ってるの」
「ん? ……神さまのくせに、ケチャップないくらいで怒るんだな、って思って」
そう言って目を細めるカイジに、また子供扱いされている気がして、少年はますます不満げな表情になる。
それから気を取り直したように、麦茶を自分のコップに注ぐカイジに向かって尋ねた。
「あんたは、食わねえの?」
カイジの前にはハンバーグの皿も、白米の盛られた茶碗も、果てはビールの缶さえも置かれていないのだ。
「実は、あんまり食欲、なくて……」
独りごちるように言ってから、なみなみと注いだ麦茶を喉を反らして一気飲みするカイジを、少年がハンバーグを箸で切り分けながら眺めていると、カイジが飲み干したグラスを、いきなり卓袱台に叩きつけた。
カツン、と突然響いた高い音に獣耳をぴんと立て、少年は手を止めて瞬きする。
「……どうかした?」
問いかけても、カイジは深くうつむいて黙ったまま返事をしない。
……様子がおかしい。
鋭い目を眇め、少年はカイジの顔を下から覗き込もうとする。
しかし垂れた長い髪に阻まれ、少年の位置からその表情を伺うことはできない。
「ねぇ、ちょっとーー」
焦れた少年がカイジに声をかけた、その瞬間。
カイジの体がぐらりと横に大きく傾ぎ、そのまま勢いよく、床に倒れこんだ。
一瞬、なにが起こったかわからず、少年は見開いた目を幾度も瞬く。
しかし、卓袱台の向こうで床に倒れているカイジの肩が苦しげに上下しているのを見て、すぐにその側に膝行り寄った。
「……ねぇ、どうしたの?」
声をかけながら、顔を見るために長い髪を手で避けようとして、触れた頬の尋常ではない熱さに少年は固まる。
カイジの顔がゆるゆると動き、黒い双眸が少年を捉えた。
「あ……わ、悪ぃ……、なんか、風邪……、思ったより、悪化して、……ッ」
微かな声でそこまで言って、カイジは体を折って激しく咳き込む。
顔が、燃えるように赤い。半開きの口から荒い息が吐き出される度、木枯らしのような音がヒューヒュー鳴っている。
汗みずくの体を抱えるようにして、力なく眉を下げて閉じた瞼を震わせるカイジを見て、少年は呆然とする。
こんなに弱りきったカイジの姿は、見たことがない。
どうすればいいかわからず、少年がただ食い入るようにその横顔を見つめていると、カイジはうっすらと目を開き、大儀そうに体を起こす。
痰の絡んだひどい咳に背中を激しく揺らし、よろけながら立ち上がると、亡者のような足取りで、ふらふらとベッドに向かって歩いていく。
掛布を捲り、シーツとの間にのそのそと潜り込むカイジを見ながら、少年はベッドの傍に立つ。
鎮痛にも見える面持ちで目を瞑り、ぜえぜえと音のする呼吸を繰り返していたカイジは、自分の上に落ちた影に気がつくと、重たげな瞼を持ち上げ、少年を見上げた。
「ーー……」
苦しい呼吸の合間にカイジがなにか言ったが、声がほとんど出ておらず、聴力の優れた少年の獣耳でもうまく聞き取れない。
少年の表情で伝わっていないことに気づいたのか、カイジは腕を持ち上げて少年を手招きする。
乞われるまま床に膝をつき、少年が口許に獣耳を近づけてやると、カイジはそっと、息を吹き込むように囁く。
「悪い……食事……、済んだら、皿だけ、流しにもってってくれ……」
まったく音の出ていない、ひどく掠れた声でそれだけ言うと、限界だ、というように、カイジは瞼を下ろしてしまう。
それきり、布団を深く被って震えながら沈黙してしまったカイジを、少年はただ黙って見下ろしていた。
風邪をひいた人間を見るのは、これが初めてだった。
もちろん、看病の経験などない。
少年はどうすればいいかわからず、とりあえずカイジに言われたとおり、皿を片付け始めた。
ハンバーグはまだ半分以上残っていたが、食べる気になれず、そのまま流しに運ぶ。
シンクの中に重ねた皿を入れ、カイジにいつも言われているとおり、汚れた部分を軽く水で流しておく。
居間に戻ると、激しく咳き込む音が耳を突く。
止まらない咳は合間に大きく息を吸う音を挟み、ずっと続いている。
あれほど声が出ていなかったのだ、喉の炎症は相当ひどいものだろう。それが咳を引き起こしている。
そして止まったと思えば、今度は反動で嘔吐いたりしている。
こんもりと膨らんだ布団が大きく上下するのを眺め、少年はふたたびベッドサイドへと歩み寄る。
足音をたてぬよう、そっと。
立ったまま、仰向けで眠るカイジの顔を覗き込むが、少年の影が顔にかかっても、カイジはさっきのように目を開かない。
眠ってしまったのだろうか? 少年はそれすらわからず、確かめるため声をかけようとして、やめた。
その場に座り、ベッドに頬杖をついてカイジの横顔を見つめる。
天界にいる他の神々が今の少年の様子を見ていたら、きっと少なからず驚いたであろう。
少年は表情こそいつものポーカーフェイスだが、その耳はついぞ誰も見たことがないくらい下がり果て、ふさふさのしっぽもだらんと床の上に這ったまま、ぴくりとも動かなくなっていたのである。
だが、少年がそうなってしまうのも無理はない。
少年は風邪に罹った人間を初めて見たのだし、まして、その相手が想い人なのだ。
今まで人間についての知識を積極的に仕入れてこなかった少年は、『風邪』というワードだけは聞き知っていたものの、具体的にそれがどういったもので、どのように対処すればよいのか等、詳しいことについてはまったくの無知なのである。
ほんの数十分前までは、ちょっと声がおかしいだけで確かに元気だったはずの想い人が、突然豹変して苦しみ始めた。
しかもその原因についての知識がほとんどない、という状況で、早い話が、少年は途方に暮れているのだ。
風邪というものがこんなにもひどいものだとわかっていれば、ハンバーグを作れなんてワガママ、言わなかったのに。
それがカイジに無理をさせ、結果的に風邪を悪化させたのではないかと、自分の無知、無力さを感じ、少年は薄い唇を噛みしめる。
神さまの力でなんとかしてやれればと思うけれど、着実に蓄えてきた、その力の使い方がわからない。
敵を攻撃したり、天運を操ったりということは得意中の得意なのに、『風邪を治す』だとか『傷を癒す』だとか、そういう方面のことに関しては、少年はてんでからっきしなのだ。
人間についての知識同様、今までまるっきりそういうことに興味や関心を持たなかったのが、その原因だ。
基礎さえ理解していれば、力の蓄積量に応じて自ずとその使い方がわかるようになるはずなのだが、少年にはその基礎がない。
かといって、他の神に聞くこともできない。過ぎた悪行の罰として地上送りになっている少年は、年に一度、神無月の大会議の時以外、他の神と接することを禁じられている。
肝心なときに、なにひとつ役に立たない、神としての自分。
心がささくれ立ってきて、少年は目を眇める。
それは、少年が神になって初めて自分自身に感じる『苛立ち』だった。
相変わらず、カイジは苦しそうに息をして、しょっちゅう激しく咳き込んでいる。
なにをすればいいかわからないながらも、少年は精一杯考えた挙句、白い手をそっと伸ばして、汗に濡れたカイジの前髪を撫でる。
それは、カイジが少年に対してよくやる行動で、少年はいつもその手を邪険に振り払っていたが、少年の冷たい手が心地良いのか、カイジは激しい咳の合間にホッと息をついた。
それを見た少年は、やわらかい手つきでカイジの頭を撫でながら、息を潜めてその顔をじっと見守り続けていた。
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