たいように しげる視点



 前髪を掴んで顔を覆う相手の掌、その指と指の隙間から、溢れ出す透明な雫が、ぽつり、ぽつりと滴って、雀卓の緑を濃くしていくのを眺めていた。

 この雀荘は、まるで四角い水槽だ。
 ブラインド越しに射し込む陽の光に温められた空気が、ぬるい水のように体に纏わりつく、底の浅い、水槽。

 周りのどよめきも、軋るような罵声も、壁一枚隔てたようで、目を閉じると、さらにそれは現実味から遠のいていく。
 閉じた瞼の裏にさえ、外からの白っぽい光が残像のようにこびりついて、離れようとはしなかった。







 雀荘から出ると、南中した太陽の光に目を灼かれた。
 ちょうど真上で燦々と輝く太陽に向かい、腕を持ち上げて掌で日差しを遮る。
 翳した掌は真っ黒な陰になり、それでも注がれる白い光を受け止めきれはしなかった。

 太陽を睨むように、目を眇める。

 指の隙間から漏れる、光。
 死線という非日常を潜り抜けてきたものを、『日常』へと引き戻す、生命力に満ち溢れた光だ。

 しかし、人でありながら、光の届かぬ深海に棲むものたちに近い本質を持つ者どもにとって、光さす生ぬるい『日常』に戻ることなど、ただ息苦しいだけ。
 そして、その性質がどこまでも人であるがゆえに、どんなに息苦しかろうとも、その中で生きるために呼吸ができてしまう。

 死んでいるように、生きている。

 今の自分は、まるで浅瀬に打ち上げられた瀕死の魚のよう。
 こんな状態では、本当の意味で『生きている』なんてとても言えない。
 本当はこんな光すら届かないほど、深くまで潜りつづけていなくてはいけないのに。

 掌をかざす程度では決して遮ることのできない、白い光を睨みつけてから、スラックスのポケットに手を突っ込んで歩き出した。



 行くあてなど、どこにもない。
 真昼の光に灼かれながら、惰性で足を動かす。
 有象無象だらけの浅瀬のような街中を泳いでいると、視界の端に、ふっと見慣れた色がよぎった。

 足を止め、その残像を目で追う。
 車道を挟んだ向こう側、すれ違う人々にぶつかりながら、死に物狂いで駆けていく人影があった。
 黒い髪、草臥れた茶色の上着、履き古したジーンズ。
 昼の街を弾丸のように駆け抜ける男の後ろから罵声が上がり、いかにもな黒いスーツ姿の連中が猟犬のようにその後を追い回していた。


 ああ、ここにも一匹。
 息苦しそうに『日常』の中を泳いでいるヤツがいる。

 知らず知らずのうち、ゆるく口角が撓んでいた。
 オレは踵を返す。男の後を追うために。





 廃ビルの隙間の、薄暗い路地へと入って行った男は、アスファルトの上に体を投げ出し、天を仰いでいた。
 離れた場所からでも、荒い息遣いが伝わってくるようだ。

 建物と建物の間に細長く切り取られた空から射し込む、忌々しい太陽の光。
 それに目を灼かれたらしい男は、ちょうどさっきのオレと同じようにして、左手を翳して庇を作っている。

 その指に生々しく残る、縫合痕。
 血管が繋がっていれば赤く透けているであろう指先を見つめ、呆然とひたすら息を整えている男に、オレは音もなく近づいた。

「なにやってるの」

 声をかけると、男は大袈裟なほど体をビクつかせる。
 さっきのヤクザだと思ったのだろう、オレの姿を認めると、体を緩めて安堵のため息をつき、それから八つ当たりみたいに非難してくる。
「おまっ、足音っ……消すなよっ……、つか、なんで、こんなとこ……、しげるっ……!」
「雀荘から帰る途中、あんたがキナ臭い連中と鬼ごっこしてるの見かけたからさ。あと、つけてみた」
 淡々と返せば、疲れたような深いため息が帰ってくる。
 眩しげに目を眇めてオレの顔を凝視するその表情を、上から覗き込むと光がくっきりとした深い陰影を作っていた。

「ミミズだってオケラだって、カイジさんだって生きている」
 日差しを遮るために伸ばされた掌を見て思いついたことを口にすれば、
「……うるせぇよ……」
 苦み走った応えが返ってくる。
 オレはちょっとだけ愉快になり、喉の奥で笑った。
「本当に生きてるって言えるのかね。あんたも、オレも」
「……」
 男の表情が、ハッキリと変化するのが見て取れた。
 陰鬱に曇る顔、険しくなる眼差し。
 その生々しい変化を傍でじっと見つめ、
「冗談だよ」
 そう呟き、しばし黙る。

 暗中模索の日々、無為な暮らし。
 まっとうな人間社会には溶け込めず、一発でそれまでの人生をひっくり返してしまえるような、大きなギャンブルに身を投じたいと常に胸を焦がしながらも、自堕落な生活を続けている。

 息苦しいほど生ぬるい『日常』に飽いているのは、あんただって同じだろう?


「『実感』が、欲しくはない?」

 自然につり上がっていく口端をそのままに問えば、黒い双眸が見返してくる。
 
 その、くっきりとした深い色。
 まるで、光届かぬ海の底のような。

 引き寄せられるように、その色の方へ顔を近づけ、密やかに囁く。
 
「あんたとなら、得られそうな気がするんだ」

 一言重ねるごとに、如実に変化していく男の表情。
 急に辺りの気温が低くなったような気がして、ゾクリと体が震えた。

「オレだってきっと、あんたに与えてあげられるよ」

 口に出すと、それは確信に変わった。
 通りの喧騒が遠い。喘ぐような男の呼吸音だけが、やたらと耳につく。

「オレと『生きて』みない? カイジさん」

 ゆっくりと、誘うように。
 そう言った瞬間、男の喉仏が動いた。

 見下ろす男の瞳はやはり、一筋の光も射さぬ海の底のようで、そちらに手を伸ばしたら最後、二度と太陽の光など拝めないほど深い場所へと、沈んでいける確信があった。

 さあ、乗ってこい。
 あんたが、オレと同じ息苦しさを感じているのなら。

 太陽の光を遮るために延べられた男の掌にふれると、体の中心にある臓器が、生きている証を刻むように、ドクン、と大きく脈を打った。









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