ずっと・2



 家に帰っても終始無言で、食事もそこそこに獣姿で丸くなってしまった少年を、カイジは心配そうな面持ちで見つめていた。

『……人間も、いつかはこうして死んじまうんだよな』
 コンビニでの少年の言葉が、自然と思い出される。

 あれからどうも、様子がおかしい。
 無常観に目覚めでもしたのだろうか。それとも定められた寿命しか生きられない人間への憐れみでも、その心に芽生えたか。

 どちらも違う気がした。
 すくなくともカイジの知る少年は、そんなしおらしさなど露ほども持ち合わせていないように見えたし、なにより、蛾の死骸ごときでそんな殊勝な心に目覚める神さまなら、そもそも地上送りになんぞされるはずがない。

 少年はきっと、もっと個人的な理由で消沈しているはずだ。
 だけど、だからこそその原因に思い当たらず、カイジは軽く唇を噛んだ。

 短くないつき合いなのに、一見読み取りにくい些細な表情の変化もわかるようになってきたのに、こういうときに限って少年のことがなにもわからない自分を、腹立たしく思う。
 自分勝手でわがままで、尊大だけどごく稀にやさしいときもある、およそ神さまらしくないこの少年と暮らすうち、カイジはすっかり、情が移ってしまったのだった。

 すうすうと軽い寝息をたてる白い獣の姿は、なんだかいつもよりちっぽけに見えた。
 物音を立てぬようにカイジはそっと立ち上がり、トイレへ向かう。





 用を足している間中も、カイジは少年のことをずっと考えていた。

 あいつのことだ、きっと理由を問いただしても、答えようとはしないだろう。
 せめてその原因がわかれば、いくらでも慰め、元気づけてやりようもあるのに。

 渦を巻いて流れる水を眺めながら、カイジは歯痒く思う。
 なにか、オレにできることがあればいいのにーー
 ため息をつきながら手を洗い、カイジはトイレのドアを開けた。




「……あ、れ……?」



 扉の外に広がっていた光景に、カイジは大きく目を瞠った。

 傷ひとつないフローリングの廊下。
 清潔さが際立つ、アイボリーの壁紙。
 オレンジ色の、小洒落た照明。
 どれひとつ、カイジには見覚えがない。

 ごくり、と唾を飲み込み、カイジは速やかにドアを閉める。
「……夢……」
 そうであってほしいという願望を込めて呟いてから、ふたたび、勢いよく開け放つ。
「……じゃねぇ……」
 扉を閉める前と寸分違わぬ光景が眼前に広がっており、カイジはガクリと項垂れた。

 いつの間に、オレんちのトイレはどこでもドアになったんだ?
 カイジの口から、乾いた笑いが漏れる。

 普通の人間なら尋常ではいられないであろうこの状況で、カイジが比較的落ち着いていられるのは、こういった類の現象に見舞われるのが、初めてではないからだ。
 たとえば、東京の街中ではなかなかお目にかかれないはずの、タヌキや野ウサギやリスといった動物が外を歩くカイジにわんさと群がってきたり、通い慣れた道のはずなのに同じ場所をぐるぐるぐるぐる歩かされた挙句、バイトに遅刻しそうになったり、道端に落ちている一万円札をラッキーとばかりに拾った瞬間、それが虫食った木の葉に変化したりと、少年の悪戯のスケープゴートという形で、カイジはこういった摩訶不思議な体験を数多くしてきたのだ。

 だから、今回のコレもきっと少年の仕業なのだろう。
 野郎、あのしょげた様子はオレを欺く演技だったのかと、カイジは苦々しく思いつつも、どこかホッとしていた。



 改めて、カイジは目の前の見知らぬ廊下を見る。

 トイレの扉を閉めてもなにも解決しないのだから、すべきことはたったのひとつ。
 先に進むしかないだろう。

 これが少年の仕業なのだとしたら、おそらく危険はないはずだ。
 さんざ荒唐無稽な目に遭わされているカイジだが、怪我だけは一度もさせられたことがなかったからだ。

 しかし、そうはいっても警戒するに越したことはないと、カイジは恐る恐るトイレから一歩を踏み出し、白い壁に手をついてそろそろと歩き出す。
 なにしろ相手は、あの悪戯好きの悪ガキなのだ。
 どんな風に化かされるかわかったもんじゃないと、まるでお化け屋敷を進むような足取りで、おっかなびっくりカイジは歩を進めていった。




 どうやら、この見知らぬ部屋は、カイジの自室より遥かに広いらしい。
 それにまだ、新築のにおいがする。廊下の照明も明るい。
 なぜか足音を忍ばせ、息をも殺しつつ足を運んでいたカイジは、やがて木でできた茶色のドアに突き当たった。

 耳を押し当ててみる。中から物音は聞こえないが、誰かがいる気配が微かに感じ取れた。

 カイジは息を飲み、速やかに踵を返そうとする。
 ……が、できなかった。

 気のせいだろうか。扉の向こうにいる誰かが、自分を呼んでいるように感じられるのだ。
 まるで、おいでおいでと手招きするみたいにやわらかいが、それでいて逆らうことを許さないような、絶対的な引力があった。

 怪しさに冷や汗を垂らしつつも、その不思議な力に促されるまま、カイジはドアノブのレバーを下げた。




[*前へ][次へ#]

2/38ページ

[戻る]