mousse ただの日常話



「起きて下さい、赤木さん」

 肩を揺すられ、赤木は目を瞑ったまま唸り声を上げる。
 狭い部屋の隅々までを照らす、蛍光灯の灯り。それから逃れようとするように壁に向かって寝返りを打とうとしたが、肩を掴んで阻止された。
「なあって。あんた、今から代打ちだって言ってただろっ……」
 耳慣れた低い声に安眠を妨げられ、赤木はぎゅっと眉根を寄せる。

 赤木のためにと家主の設定した携帯電話のアラームが、かなり前から五分刻みで鳴り続けていたことに、赤木は気がついていた。
 気づいていながら、無視してこの時間まで寝こけていたのである。

 短くない付き合いの間で、家主もこういう展開には慣れっこになってしまったらしく、アラームが鳴るとその都度、まったく動こうとしない赤木の代わりに自分が枕許まで来てアラームを止めていく。
 そして、本格的に起きなければマズいという時間になると、こうして自ら揺り起こしに来るのだ。

 自分のために動く恋人の、甲斐甲斐しいとも言える様子に赤木の頬は緩むものの、やはり眠りを妨げられるのはあまり気持ちのいいことではない。

 瞼越しでも眩しさに眩む目の上に手を翳しつつ、赤木はボソリと呟いた。
「……ん〜……サボっちまおっかな……」
「なに寝惚けたこと言ってるんだよ。相手、ヤクザなんだろ?」
 ため息混じりの、呆れた声。
 くつくつと喉を鳴らして、赤木は起き抜けの掠れた声で家主に囁く。
「今日はお前と一緒にいたい気分なんだよ……なぁ、カイジ」
 目の上に翳した手をずらし、意味ありげな流し目を送ってみる。

 無論、歯の浮くようなこれらの言動は、すべて家主ーーカイジの、照れたり怒ったりという可愛らしいリアクションを期待してのことであった。
 しかし、カイジは赤木の期待とは対極に位置するようなにこやかな笑顔で、きっぱりと言い放った。
「やっと起きたな。おはようございます。さっさと、支度して下さい」
 わざとらしく丁寧語まで使って、自分の願望を粉微塵に叩き壊していくカイジに、赤木は聞こえよがしなため息をひとつ吐くと、渋々起き上がる。

「体、怠ぃな……」
 くあ、と大欠伸をして、目を擦りながら赤木が言うと、すぐさまカイジの表情が心配そうに曇った。
「大丈夫ですか? 風邪、とか……?」
 赤木はふっと笑い、首を横に振る。
「なに……すこし、疲れただけさ。誰かさんが中々、離してくれなかったからな……」
「なっ……!」
 一瞬で燃え上がるように赤くなるカイジを尻目に、赤木はするりとベッドを抜け出した。

 物憂げな動作で一枚一枚服を拾って身につけていきながら、赤木は横目でカイジを見る。
 目と目が合って、柄シャツに袖を通しながらニヤリと笑いかけてやると、カイジは真っ赤な顔に、すぐさま憤懣の表情をのぼらせた。
 ようやく見ることのできた望み通りのリアクションに、赤木はさらに笑みを深めつつ、ベルトを通して靴下を履いた。

 あとは、スーツの上着を羽織るだけ。若い頃から一貫して、赤木の身支度は早い。
 時計を見る。迎えの車が来るまで、まだすこし時間がありそうだ。

 赤木は悠々と床に胡座をかいて座り、卓袱台の上のタバコを引き寄せる。
 だが、一本抜いて咥える前に、カイジの声がかかった。
「赤木さん、あんたまさか……」
「……ん?」
 固い声の方へ赤木が視線を向ければ、引き攣った顔のカイジと目が合う。
「そのまま、外に出ようってんじゃねぇよな……?」
 思いがけないことを言われ、赤木は眉を上げた。
「……なんか、おかしいか?」
 言いながら、顎に手を滑らせてみる。が、この部屋に来たのはほんの数時間前のこと。夜を明かしたわけではないので、髭はまだ伸びていない。

 子供のように首を傾げる赤木に、カイジは本日何度目かのため息をつく。
「髪、ボサボサじゃないですか」
 言われて、ああ、と気がつき、赤木は頭に手をやる。
 しかしーー、確かに多少、乱れてはいるけれど、
「そんなに、気にするほどでもねぇだろ」
 跳ねた部分をちょいちょいと撫でつけながらそう言うと、カイジの太い眉がぎゅうっと寄った。
「駄目ですよ……『神域の男』が、そんなに身形に無頓着じゃ」
「それは、周りが勝手に騒いでるだけなんだがなぁ」
 苦笑して頭を掻いてみせるが、そんな言い訳でカイジが引き下がるはずもない。
 黙ったまま、カイジは赤木の側を離れると、テレビ台の上に置いてある鏡と、スプレー缶を一本持って戻ってきた。
「ーーはい。これ、使っていいですから」
 卓袱台の上に置かれた鏡とスプレー缶を交互に眺め、赤木は口をへの字に曲げる。

 とりあえず鏡を覗き込んでみるが、もとより見た目というものにあまりこだわらない赤木にとっては、やはりこの程度の髪の乱れなど、そう気にするほどのこととは思えない。
 ……が、真剣な顔つきを見る限り、カイジにとって、これは瑣末ごとではないのだろう。
 赤木に憧れ、惚れているからこそ、カイジには無視できないのだ。

 テレビ台の上には他にも、スプレー缶やヘアトニックの瓶らしきものが、数点置いてある。
 意外に身形に気を使っているのかもしれねえな。こいつも若いし当然か……などとぼんやり考えながら、赤木は一応、スプレー缶を手に取ってみる。

 しかしそこで赤木は動きを止め、にこやかに笑ってカイジを見た。
「なぁ、お前がやってくれねえか」
「……は?」
「俺こういうの、使い慣れてなくてな」
 頼むよ、と甘えるように言い添えれば、赤木のおねだりに弱いカイジは抵抗を示すようにちょっと唸ってみせたが、
「……それ、貸して下さい」
 渋々、赤木の方へ手を伸ばしてきた。
 ありがとよ、と調子よく言って赤木がスプレー缶を手渡すと、カイジはしかめっ面のまま、赤木の背後に座る。

 鏡の角度を調節してから、カイジはスプレー缶を振る。
 そのまま、自分の髪に吹き掛けられるものと赤木はなんとなく思い込んでいたが、カイジは自分の左掌にノズルの先を向けた。
 赤木は碌に缶を見もしなかったが、どうやら中身はムースだったらしい。

 短い噴射音のあと、メレンゲ状の泡がカイジの掌の中で、あっという間に卵大まで膨らむ。
 卓袱台に缶を置くと、カイジは両掌で潰さないように泡を伸ばし、赤木の髪に触れた。

 赤木の背後から鏡を覗き込みながら、髪にムースを揉み込んでいく手つきは、やたら丁寧で、やわらかい。
 まるで臆病な動物でも撫でるようなそれをちょっと擽ったく思いながら、赤木が鏡越しにカイジの顔を見ると、そこに映っている恋人の表情は真剣そのものだった。
 変なところで真面目な性分が垣間見え、赤木は内心苦笑する。
 そんなに熱心にやらなくても、と言ってやりたくなるが、なんだか水を差すのも憚られ、結局黙っていた。

 もともと癖がなく、さらりとしている赤木の髪は、カイジの手によってあっという間に整えられていく。
「赤木さんって、髪質は素直なんですね」
「……ん? どういう意味だ?」
 眉を上げて鏡越しに聞き返せば、カイジはクスクス笑いながら「独り言です」と答える。

 そんなやり取りを交わしているうち、赤木の髪の跳ねや乱れは、いつの間にか完全に形を潜め、頭の形に沿ってきちんと纏められていった。
 仕上げに手櫛で全体を整え、カイジは軽く息をついて鏡の中で赤木と目を合わせる。
「ーーできましたよ」
「おう。悪いな」
「次からは、自分でできますよね」
 有無を言わさぬカイジの口調に、「うーん、どうだろうなぁ」などと赤木はすっとぼけてみせる。

 鏡を見ながら頭を動かし、恋人に整えてもらった髪型を、赤木は興味津々といった顔つきで観察する。
「なかなか、上手いじゃねえか」
 赤木が褒めると、カイジは軽く吹き出した。
「べつに、そんな大層なもんじゃねえよ」
「そうなのか? じゃあこれからも、お前にーー」
「自分でやって下さいね」
 再度、ぴしゃりと釘を打たれて肩を竦める赤木の鼻先を、ふわりと清涼感のある香りが擽った。
 馴染みのあるその香りに、赤木はああ、と声を上げる。
「ーーお前の匂いだ。外で会うときの、お前の匂い」
 いつもタバコの匂いに紛れるようにして、控えめに漂っていたのはこの整髪料の香りだったのかと、赤木は目を細める。
「……いい匂いだなぁ。俺、この匂い好きだぜ」
 リラックスしたような表情で呟き、香りを確かめるように息を吸い込む。
 率直で、子供のように屈託のないその様子に、目を見開いたカイジの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていった。

 鏡越しにその変化を見て取った赤木は、わずかに目を丸くしたあと、ニヤリと笑って振り返る。
「お前、なに赤くなってんだ?」
「う、るせえっ……! あんたが、変な言い方するからっ……!」
 もごもご言いながら顔を背けていくカイジに、赤木は悪戯っぽく喉を鳴らして笑う。
 逃げていく顔を両手で挟んで固定して、無理やり唇を重ねると、びくりと身を竦ませたあと、石のように硬くなってカイジは口づけを受け入れていた。

 触れ合わせるだけのキスを終えて唇を離し、赤木はカイジの顔を見る。
 ふて腐れたようなその顔はもう耳まで赤らんでいて、構い倒したくなるようなその様子に赤木は苦笑する。
「えっ? ……うわっ!!」
 そのまま、いきなり全体重をかけられ、不意を突かれたカイジはあっさり床に押し倒されてしまった。
「ちょっ、赤木さんっ!」
「んー?」
 体にのしかかり、顔中に口づけを落とされて、カイジは焦った声を上げる。
「あんた、なにしようとしてんだっ……!!」
「ん? ……なにって、ナニだよ」
 吐息で擽るように耳許で囁けば、カイジの口からちいさな悲鳴が漏れる。
「こ、これから、代打ちなんだろっ……?」
「まあな」
「だったら、こんなこと……ッ」
 涙目で大きく身を捩るカイジを見下ろして、赤木は大きく破顔した。

「だから遅刻しないように、早く済ませなきゃな。
 ーーお前も協力してくれよ、カイジ?」

 身勝手にそう言い放つと、文句が出る前に赤木はカイジの唇を塞いでしまう。


 ーーそんなわけで、せっかくカイジの手によって整えられた赤木の髪は、ふたたび見る影もなく乱れることになってしまい、赤木はカイジにどやされつつ結局自分で髪を直して、大遅刻で迎えの車に乗り込んだのだった。





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