改札



「お前……戻ってくるよな?」

 ぼそりと呟かれたカイジの問いかけに、しげるが足を止める。
 駅の改札を前に見つめ合うふたりを、行き交う人々は怪訝そうな顔で眺め、その周りを避けるように通り過ぎていった。

 この人は、時折やけに鋭いときがあると、真摯な眼差しから目を伏せつつしげるは思う。
 そろそろ、このお節介なお人好しのもとから離れようかと考えていたところに、齎された代打ちの依頼。
 場所は北陸、石川。ちょうど都合が良かったと、今回勝ったらしばらく東京へは戻ってこないつもりでいた。

 指定の場所へ向かうために乗る、新幹線の改札口。珍しく、カイジはここまでついてきた。
 いつもなら、最寄駅までしか見送りに来ないのに。やはり、なにかを感じ取っているのかもしれないと思いながら、しげるは目線を上げてカイジの顔を見る。

 引き結ばれた唇。後ろ被りしたキャップの下の、濃い眉も強張っているように見えた。
 わずかに緊張した面持ちで、しげるの返事を待っているカイジ。しかし、常ならばうろうろと落ち着かない印象のあるその視線は揺らぐことなく、まっすぐしげるに注がれていた。

 こういう時に限って、ゾクゾクするようないい顔を向けてくる。本人は、まったく気がついていないのだろうけれど。
 しげるは曖昧に笑い、さて、なんと答えてやろうかと考える。
 そこでふと、軽い悪戯心が兆し、思いついたまま言葉を口にした。

「カイジさんがもし、ここでキスしてくれたら、帰ってきてあげてもいいよ」

 なめらかな音で淡々とその台詞が紡がれた途端、裂けたようなつり目が大きく見開かれる。
 ぽかんと口を開いたまま、食い入るように自分を見つめるその顔が、あまりにも想像した通りだったので、しげるはちょっと笑ってしまった。

 ふたりの間に、わずかな沈黙が落ちる。
 周りには、忙しなく通り過ぎていく人々の群れ。
 騒がしさの中に掻き消されそうな発着のチャイムと、アナウンスが耳に届く。

 こんなに人目のある中で、カイジにキスなんてできるはずがない。
 それがわかっているから、しげるは先の言葉を口にしたのだ。
 遠回しに、もう戻ってこないと伝えるつもりで。
 それと、最後にちょっと揶揄ってやろうという邪心とで、『キスしてくれたら』なんて口走ったのである。

 ーーこの間抜け面も、見納めか。
 そんなことを考えながら、しげるは呆気にとられているカイジの顔を眺める。
 またいつか、どこかで会う日も来るだろう。その時は、この人と遊びじゃない博奕が打てたらいいな、なんて思いながら、しげるは再度、口を開く。

 それじゃ、また。

 別れの台詞としてはあっさりとし過ぎているその言葉を最後に、しげるは男に背を向け、改札を潜る……つもり、だった。
 しげるが開いた口から言葉を発するより早く、低い声がその耳に飛び込んできたのだ。

「なんだ……」

 ぽつりと。
 鼓膜を震わせたのは確かに目の前の男の声で、しげるは言いかけた言葉を飲み込む。
 すぅ、と軽く息を吸い込むと、カイジはしげるをまっすぐに見たまま、ハッキリとした声音で言い放った。

「なんだ、そんなことか」

 困惑も驚きもまるで含まれていない、淡々とした口調。
 それをしげるの耳が拾うのとほぼ同時に、カイジは大きく足を踏み出した。

 一メートル弱は離れていたふたりの距離が、一気に詰まる。
 しげるは間近でカイジの顔を見上げようとしたが、叶わなかった。

 頭の上に、なにかを深く被せられたのだ。
 それがカイジのキャップだと気づいた瞬間、しげるは唇を塞がれていた。

 被せたキャップの上から頭を押さえたまま、しげるの顔を覗き込むようにして顔を傾け、カイジはそっと押し当てるように唇を重ねている。
 思いも寄らない展開に声も出せぬまま、しげるはただゆっくりと、瞬きをひとつだけ、した。



 
 その間、数十秒だったか、数秒だったか。
 気がつけばカイジはしげるから唇を離していて、吐息の交わる距離でボソリと一言、

「……男に二言はねぇよな?」

 ひどく真剣な声で囁くと、ポンとしげるの頭を叩くように撫で、離れていった。

 わずかな間ののち、しげるが視界を奪うキャップのつばを掴んで脱ぎ去ると、カイジは既にしげるに背を向け、歩き出していた。
「北陸行くなら、土産にうまい酒でも買ってこいよなっ……!」
 振り返らないままそう言葉を投げ、カイジは右手をひらひらと振る。
 しげるがなにか言おうとするよりも早く、その背中はあっという間に雑踏の中へと紛れ、消えたのだった。



 改札の前でひとり、カイジの消えた人混みを眺めながら、しげるは細い眉を寄せて唇を噛んだ。

 ーー油断した。

 舌打ちする代わりに、掌中のキャップをくしゃりと握り締める。

 まさか、本当にしてくるなんて思ってもみなかった。
『なんだ、そんなことか』だって?
 普段なら、絶対にできやしないくせに。
 こういう時だけ、なんでもないことみたいに、してくるなんて。

 そこでしげるは目を伏せ、いや……、と打ち消す。

 羞恥心の強いあの人にとって、人混みの中でのキスが『なんでもないこと』のはずがない。
 だからわざわざこんなものを被せたのだと、手中のキャップを睨むように見た。

 キャップを被せてやるという動作を交えることによって、カイジはちょっとでも、人々の目を誤魔化そうという腹積もりだったのだろう。
 ……さすがにそんなものじゃ到底、誤魔化しきれなかったということは、現在進行形でしげるに注がれている、周りからの好奇の視線が痛いほど証明しているのだけれども。

 しげるは周りの視線など、もちろん気にも止めない。
 だが、それとは全くべつの理由で、なんとなく面白くないような気分にさせられていた。

 ぶかぶかのキャップを目深に被せられていたせいで、カイジの表情をまったく見ることができなかったからである。
 キスする前と、キスした後。カイジがどんな顔をしていたのか、しげるはチラとも見られなかったのだ。

 もしかすると、カイジはこの効果を狙って、キャップなど被せたのかもしれない。
 行き交う有象無象の目なんかよりもずっと厄介な、恋人の目を隠してしまうため。
 もしそうなのだとしたら、カイジのその思惑はバッチリ狙い通りうまくいってしまったわけで、その事実が尚のこと、しげるを仏頂面にさせた。

 人混みを睨みながら一頻り思いを巡らせたあと、しげるはふっと息をつく。

 自分に背を向けたあと、あの人はいったい、どんな顔をしていたのだろう。
 余裕がある風に見せつけていたけれど、そんなはずはない。
 きっと、羞恥で真っ赤になっていたはずだ。
 情けなく眉を下げて、なぜかちょっと涙目になって……
 それを想像すると、しげるの心はちょっとだけ愉快さを取り戻した。

 仕方ない。

 ポケットから切符を取り出しながら、しげるは踵を返す。

『キスしてくれたら、帰ってきてあげてもいい』なんて言い出したのは、自分の方だし。
 このキャップも、返してあげなきゃいけない。
 これから最も帽子が必要になる季節だってのに、こんなことで手離しちまうなんて、本当に間抜けだな、カイジさん。

 猫のように、しげるは喉を鳴らして笑う。

 そうだ。帽子を返すついでに、あのときどんな気持ちでキスしたのかって、しつこく聞いてやろう。
 きっと言葉で答えを聞くことはできないけれど、その代わり、さっきはキャップが邪魔をして見られなかった表情を、しっかりと見ることができるだろう。

 愉快そうに考えを巡らせながら、しげるは重ねた切符を改札に通す。

 ーー一度離れようとしたオレを留めさせたからには、覚悟しておいてね。カイジさん。

 足取り軽く新幹線のホームに向かうしげるの口角は、緩やかにつり上がっていた。







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