彼の岸の花 謎シリアス



 夢を見た。

 白い男が、真っ赤な花束を抱えて立っている。
 いつなのか、どこなのかもわからない。水の流れる音が聞こえる、薄暗い、河原のような場所に立っている。
 その中で男は、ただ静かに、口端をつり上げて笑っている。
 両腕では抱えきれないくらいの大きな花束を体の前に抱え、その笑顔はこの上なく、幸福そうに見えた。

 夢の中で、オレは首を傾げる。
 強烈な違和感。オレの知るその男は、花ごときで喜ぶような奴ではなかったはずだ。
 そいつが、花を抱えてオレが見たこともないようなやわらかい笑顔を見せている。
 明らかに異常といえる光景。それを目の当たりにして、オレは言葉も出ずに花束を凝視する。

 飛び散るように鮮やかな、幾何学模様の花弁。
 いったいなんといっただろう、この、禍々しいほど赤い花の名は。
 
 思い出せないまま、白い腕から零れ落ちそうな赤を見つめていると、ふいに、どこからともなく風が吹いてくる。

 ゆるやかに空気が撹拌され、刹那。
 オレは、男が抱えているものが花束ではないということに、そこでようやく、気づく。

 あたりに充満する、鉄錆の匂い。
 飛び散るように、鮮やかな赤。
 胸から腹から、溢れ出しては衣服に描かれる幾何学模様。
 抱えるかたちの白い腕は、単に己の傷口を覆っていたのだ。

 静かに混乱する。確かに、さっきまであの赤いものは花束だったはずだ。細長い花弁の一枚一枚まで、この目で確かに見たはず。
 それなのに、いつの間に花ではなくなっていたのだろう?
 いや……、すべてはオレの思い込みだったのかもしれない。
 最初から、あれは男の体から流れ出るただの液体で、花などではなかったのかもしれない。

 自分の認識に自信を失い、急に足許がぐらつくような不安を覚える。
 焦燥に喘ぐオレの目の前で、溢れる赤は男の腕にも絡みつき、次々と地面に滴り落ちていく。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。
 無数に重なったそれらは、やがて白い男の足許に、赤い水溜りを作る。

 それでも、男はやはり、笑っていた。








 頬に走った痒みに顔を顰め、オレは眠りから醒めた。
 無意識に古傷の上をなぞると、指先にぬるりと滑る感触。ぼんやりと目を開き、起き抜けで痺れているような指先を眺める。

 なにか、赤黒い液体が付着している。
 人差し指と中指と、親指の腹を擦り合わせ、離す。
 水よりもわずかにとろみのあるだけの、さらりとした液体。
 醒め切らない頭のまま暫しぼんやりとそれを眺め、その正体に気がついたオレは、わずかに目を見開いた。

 それと同時に、暗がりでオレの顔を覗き込む男の存在がようやく目に入る。
「おはよう」
 目が合うと、男はそう言ってすこし、笑ってみせた。
 皮肉めいたいつもの笑み。夢の中の笑顔とは、似ても似つかないそれを見て、今さっきまで見ていた夢のことを、急にハッキリと思い出す。

 イヤに生々しく、脳にこびりつくような夢だった。こいつが原因かと、闇の中立つ男に眇めた目線を送る。

 平然とすましているような白い顔、前髪に隠れているその額のあたりから、赤い液体が滔々と滴り、細い顎の先からぽたり、ぽたり、と滴り落ちているのだ。
 それがちょうどオレの顔の上に落ち、頬を濡らしたらしい。その感触で目覚めたのだ。

 男はどうやら、流れ出る血を拭いもせずオレの寝顔を眺めていたようである。
 鍵は渡してあるから、それで入ってきたのだろうが、いったいいつから、どれくらいの間こうしていたのだか。

 意識がハッキリしてくるにつれ、顔の上にいくつもの濡れた感触が点々としているのを感じた。
 眉間、頬、鼻の上。顔中に落とされた液体の、生臭い匂いが鼻をつく。
 この匂いのせいで、あんな夢を見たのに違いなかった。

 文句を言おうと口を開いたら、嫌な味が舌を刺した。どうやら口の端にも一滴、落ちていたらしい。
「……お前のせいで、夢見が最悪だった」
 唾を吐いてやりたいのを我慢しながら、顔を顰めて吐き捨てると、男は悪びれもせず、「あらら」と呟いた。
「どんな夢、見たの?」
 質問を無視して、オレは寝たまま、男の方へと手を伸ばす。
 指先が男の頤に触れ、そこから滴る赤に濡れた。
 察したように、男がやや身を屈めてくる。
 近くなった顔の上、濡れた赤い線を上へ、上へと辿っていく。
「また喧嘩か」
 わかりきったことを口に出せば、ちょうど唇に触れていた指に歯を立てられた。
 そのまま口に含まれ、丹念に舐められる。
 起き抜けで神経が過敏になっているのか、不覚にも背筋が粟立ち、眉を寄せて指を引き抜く。

 綺麗に舐め取られた指を、ふたたび男の体液に浸す。
 鼻梁を通って眉間をなぞり、鮮やかに赤く染まった前髪を掻き上げる。

 そこにある傷は、暗い部屋の中ではハッキリとは見えなかった。
 ただ、なめらかな皮膚がぱっくりと大きく裂け、そこが熱を持っているのを、指先で感じた。

「痛むか?」
 傷口に指を滑らしながら尋ねる。
 わざと、ちょっと痛むように、強めになぞってやった。あんな夢を見せられたことへの、腹いせのつもりだった。
 男は痛がるそぶりも見せず、目を細め、おとなしくされるがままになっている。頭を撫でられている猫のようだ。
 穏やかに微笑んでいるみたいに見えるのは、口角に刻まれた陰影のせいだろうか。


 夢の中でも男は、見たことのない穏やかな顔で微笑していた。
 あれは強ち、単に夢の中だけの話だとも言い切れないんじゃないかと、オレは唐突に思った。
 赤い花束のように錯覚するほど大量の出血。夢の中の男の傷は、たぶん命に関わるようなそれだった。
 あんな風に己の体を傷つけられて、笑うなんて理解できないけれど、ことこの男に限っては、現実でそうなってもおかしくないように思える。

 男が今夜ここへきた理由は、わかりきっていた。
 額の傷。それを作った原因がどんなものだかは知る由もないが、顛末はだいたい想像がつく。

 夢の中のように死に至る傷をつけられたいと願っているわけではないだろうが、不完全燃焼であることは確かだろう。そういうとき、男は決まってオレを訪ねてくる。      
 いい迷惑だと、常なら悪態をつくところだが、あんな夢を見たせいか、そんな気も起こらなかった。

 ため息をつき、男の傷の上から手を退ける。
 手当てをすべきか一瞬考えたが、男が望んでいなさそうだったのでやめておくことにした。出血は多いけど、夢の中みたいに、死に至るような傷ではなさそうだし。

 代わりに、赤く濡れた指先を血の気の失せた白い頬へと滑らせると、男はわずかに目を見開いた。
 そのまま首後ろへ腕を回し、引き寄せようとすると、意外にも唇の重なる直前で男はわずかに力を込めて抵抗した。
「……汚れるぜ?」
 鋭い瞳が、間近で光って見える。
 そのつもりで来ているくせに。それにもう十分汚されちまってるのに、今さらそんなことを言うのが可笑しくて、オレは思わず笑ってしまった。
 オレが小言を言わないのが、血相変えて手当てをしないのが、そんなに珍しいのか。男は探るような目で、オレを見つめている。
「いいよ。汚してくれ」
 笑ったままそう言ってから、ちょっと考え、
「汚れたい気分なんだ」
 と付け加えると、血の匂いのする唇がすぐに重なってくる。

 迷いなく潜り込んでくる舌。口いっぱいに広がる味のせいで、熱く溶けた鉄の塊を受け入れているみたいだった。

 伏せられた白い瞼を見ながら、ゆっくりと目を閉じる。
 瞼の裏に、さっきまで見ていた夢の残像がフラッシュバックする。
 死に瀕して、初めて見せたあの穏やかな笑顔。あれはオレの中の男に対する印象が見せた幻に過ぎないけれども、それでも死の間際、男はきっと笑っているような気がする。

 たとえば、あっさりと死んでしまうことと燻ったまま生き続けること、どちらか選べと言われたら、この男はどちらを選ぶのだろうか。
 そこまで考えて、馬鹿馬鹿しいと首を振る。そんなものの答えはとっくに見えている。この男は、死ぬために『生きて』いるのだ。

 仮にもし、男が負っている傷が夢の中のような酷いものだったとしたら、オレは当然、男を助けようとするだろう。そうしたら、こいつはどんなリアクションをしただろう。余計なことをするなと、怒っただろうか。

 そもそも、現実でそういう傷を負ったとき、男は今夜みたく、ここへやって来るのだろうか。
 来ないかもしれない。オレはきっと、男を助けようとしてしまうから。男はそんなこと、望んでいないような気がする。
 それでも、オレは男への接し方を変えることなどできないし、男も自分の生き方を曲げることなどできはしないだろう。
 どうしても相容れない。そういう部分は誰にだってあるが、オレたちの場合それが生死の問題にまで関わってくるような、魂の根幹を占めている。
 どうにもならない。どうしようもないことなのだ。

 苛立ちと愛情を込め、骨が軋むくらいに強く強く抱きしめてやると、荒い吐息の混ざり合う距離で男が微かに笑う気配がした。

 そこで唐突に閃くように、オレはあの赤い花の名前を思い出す。
 あの薄暗い河の岸辺のような場所で、白い男の腕によく映えていた、飛び散るように赤い、幾何学模様の花。

 それによく似た傷を抱えていた男の、夢の中で見せた笑顔をもう一度思い出そうとしてみたが、それはもはや記憶の彼方に遠く霞んで、いったいどんなだったか、既に思い出せなくなっていた。






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