放課後 学パロ 甘々




「ハイ。これ、化学準備室ね」

 そう言って、手渡された一抱えもある段ボール箱はずっしりと重く、危うく取り落としそうになったカイジは慌てて両の足に力を入れて踏ん張った。
「その中に入ってる機械、九十万するの。壊したら弁償だから」
 中年の女教師は、さらりと恐ろしいことを言い放つ。
 カイジはさっと青ざめ、荷物を抱える腕にギュッと力を込め直した。

 高校生の息子がいるというこの化学教師にとっては、無口で無愛想な不良生徒も我が子同然に見えるらしく、忠告する口振りにも容赦がない。
 皺だらけの顔で柔和にニコニコと笑ってはいるけれども、その目の奥は決して笑ってはいないように見えた。

 脅しじゃない。マジだ。

 直感的にそう確信したカイジはゴクリと唾を飲み下し、
「……ッス」
 ペコリと教師に礼をすると、慎重に踵を返した。

 ……返そうと、した。

「……ッッ!?」
 いきなり、腰のあたりから背筋をつうーっとなぞり上げられて、カイジは零れ落ちそうなほど目を見開く。
 ほとんど飛び上がるように体を跳ねさせたあと、膝からふにゃりと頽れかけた脚を踏ん張り、体勢をなんとか整えた。
 はぁはぁと息を荒げながら、腕の中でわずかに傾いだ段ボール箱を血走った目で凝視したあと、詰めていた息を深いため息に変え、長く長く吐き出す。

「ッこの野郎……っ!! なにしやがるっ……!!」
 すぐさま隣を見遣り、ものすごい剣幕でカイジは噛みついたが、視線の先にいる白髪の不良は、明後日の方向を向いて欠伸をしていた。
「おいコラ、聞いてんのかアカギてめぇ……っ! マジ、シャレになんねぇぞっ……!! 落としたらどうしてくれんだよっ……!!」
 涙目でぎゃあぎゃあ喚き立てるカイジを煩そうに一瞥して、アカギは馬鹿にしたように鼻で笑う。
「弁償すればいいじゃない」
「アホかっ……! 九十万だぞ九十万っ……!! お前払えんのかよっ……!!」
「なんでオレが払わなきゃいけねぇんだよ。荷物運ぶのはカイジさんでしょ」
「お前なぁ……っ!!」
 そこでクスクスと笑う声が聞こえ、カイジはハッとして口を噤む。
 子供のように喧嘩するふたりの不良生徒を可笑しそうに眺めながら、女教師は呆れたように言った。

「あんた達、仲良いわねぇ」

 その瞬間。
 誰の目にも明らかなほどの鮮やかさで、カイジの頬がさっと赤らんでいく。
 そのまま、首を折るように深くうつむいて黙り込んでしまったカイジを横目で眺め、アカギは教師に言った。

「……鍵は」
「あ。そうだった」
 女教師は白衣のポケットに手を突っ込み、赤いタグのついた鍵をアカギに手渡した。
「それじゃ、頼んだよ。無事運んでくれたら約束通り、オマケで単位あげるから」
 ひらひらと手を振る女教師にうつむいたまま軽く会釈して、カイジはそそくさとその場を立ち去る。
 複雑な感情の滲むその背中を追って、アカギも職員室を後にした。


 放課後。教室から解放された生徒たちの声が響く廊下は賑々しい。
「カイジさん」
 慎重に歩を進める後ろ姿にアカギは呼びかけたが、返事はない。
 長い足での数歩であっという間に隣に並んで顔を覗き込むと、カイジは太い眉を寄せてむっつりと押し黙っていた。
「怒ってる?」
 淡々と、悪びれた風もなくアカギが問うと、諦めた風にため息をつき、カイジはチラリとアカギを睨んだ。
「お前ああいうの、マジやめろよな……」
 大きな瞳はもう潤んではいないが、日に灼けた頬は未だうっすら朱に染まっている。
 その顔を見る限り、今カイジがむくれているのは、アカギの悪戯で九十万の機械を落っことしそうになったことではなく、その後の教師の言葉のせいであることは明白だった。

 わかりやすい恋人の不機嫌な横顔を眺め、アカギは苦笑する。
 女教師の『仲良いわねぇ』は、もちろん友人として、ということであって、べつに他意など含んでいるはずがないのに、カイジはひとりで過剰に意識して赤面して黙りこんだりなんかして、逆に怪しまれかねない雰囲気を自ら作ってしまっている。

 主にカイジが気にするため、必要以上に学校でつるまないようにしているふたりではあるが、ちょっと揶揄っただけでこれだけボロを出してしまうところを見ると、神経質過ぎるほどふたりでいることを避けるカイジの配慮も、ある意味間違っていないと言えそうだ。
 その上、本人が自分のわかりやすさについてまったく無自覚であるということが、アカギからしてみれば、信じられないことなのだった。
 

「本当に放っておけない人だよな、あんた」
 ため息まじりの呟きを聞き咎め、カイジはムッとした顔でアカギを見る。
「……どういう意味だよ?」
「べつに。そのまんまの意味」
 すました顔でそれだけ答えて口を閉ざすアカギに、カイジは眉を寄せたまま怪訝な顔をしていたが、結局なにも言わず、しばらくそのまま黙って歩いていた。





 化学準備室は三階なので、二階の職員室からは階段を上らなくては行けない。
 三階へと続く階段を前にカイジはいったん立ち止まり、荷物をしっかりと抱え直す。
「大丈夫?」
 アカギが声をかけると、カイジはひとつ頷いて、一段目に右足をかけた。

 一段一段、慎重に足を運んでいくカイジに歩調を合わせ、アカギもまた、ゆっくりと階段を上っていく。
 真剣そうな横顔を隣で黙って眺めていると、やがて、カイジが口を開き、
「……放っておけないの、お前の方だろうがっ……」
 そう、ちいさな声でぽつりと言った。
 足音に紛れて消えてしまいそうなその言葉にアカギは眉を上げ、緩く瞬きをする。
 どうやら、長い沈黙を挟んだが、さっきの会話はまだ続いていたらしい。

「……どういう意味?」
 カイジから投げられた問いとまったく同じことをアカギが訊き返せば、カイジは怒ったような表情のまま、答えた。
「すぐ喧嘩するし、素行最悪だし、なのに、な、なんか……やたら女にモテるしっ……」
 ブツブツとやたら早口で、カイジは文句なのかよくわからないことをぼやく。
 それから最後に、より一層ちいさな声で、でもはっきりと、呟いた。
「……お前のこと、放っておけないから、今、こんなもん必死で運んでんだろうがっ……」
 思わず、アカギはカイジの顔を凝視する。
 話は終わったとでも言わんばかりにカイジは唇を引き結び、なにも書いていない段ボール箱の表面にひたすら目を落としていた。


 
 今回の化学のテスト、カイジはギリギリ教師の示した単位の及第点に届かなかった。
 二回もダブっているカイジだが、最近は真面目に授業に出ることも増えてきたため、よほどのことがない限り、温情で単位を与えられる。
 化学教師はこの荷運びを、足りないカイジのテストの点数を埋める課題の代わりとしたのだ。

 つまり、カイジは卒業するためにせっせとこの荷物を運んでいるのであり、さっきのカイジの言葉が本当だとすると、その理由は『アカギのことを放っておけないから』ということになる。

 自分のことを放っておけないから、一緒に卒業できるように頑張っているのだと、いったいどんな気持ちで、そんな甘い言葉を口に出したのか。
 意地っ張りで頑なで、滅多に素直な感情など向けてくることのない恋人の横顔を、アカギが食い入るように見つめていると、その頬が徐々に、上気してくるのがわかった。

 重い荷物を抱えて階段を上っているせいなのか、あるいはまったくべつの理由でそうなっているのか。
 真相は、本人にしかわからない。
 わからないけれども、アカギはとりあえず、その頬にキスしたくなる衝動を、無理やり押さえ込むのに苦労した。

 こんなところで悪戯しては、本当にカイジが九十万を弁償させられることになってしまいかねない。
 それを肩代わりしてやってでも、ふって湧いたこの欲望を満たしたい気もしたけれど、本格的にカイジが口を利いてくれなくなりそうなので、喉を鳴らすいつもの笑いひとつで、アカギはどうにかその欲望を飲み込んだのだった。




 鍵を回して引き戸を開けると、埃っぽい空気と酸っぱいような独特の匂いが鼻を突く。
 さまざまな薬品の瓶がズラリと並ぶガラス棚が囲む化学準備室の中は、模型やら資料やらが散乱しているせいで狭さが際立っている。

 カイジの後に続いて部屋の中に入り、見るともなしに辺りを眺めていたアカギは、ふと振り返って目を遣った入口の引き戸に、あるものがついているのを発見した。

 カイジに気づかれないよう、音を立てずにそっと扉を閉める。
 廊下に響く人の声や雑多な音が、扉に隔てられてわずかに遠くなった。


 部屋の真ん中にある机の上にそっと荷物を降ろし、カイジはホッと安堵の息をついた。
 額にじわりと滲んだ汗を、手の甲で拭う。
「悪かったな、付き合わせちまって……」
 今日はもともと、ふたりで帰路にあるファストフード店に寄り道して帰る予定があったから、カイジの用事にアカギが付き合ってやっていたのだ。

 緊張の解けた表情で礼を言うカイジを見て、アカギは静かに笑い、首を横に振った。
「いいよ。……埋め合わせ、してもらうから」
 意味深な発言に、カイジは一瞬、ぽかんとする。
 軽く見開かれたその目が、悪戯っぽく細められたアカギの目と合った瞬間。

 カチリ、と。
 後ろ手にアカギの下ろした内鍵の音が、ちいさな部屋の中の、ふたりの耳だけに届いた。







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