蛇足 カイジさんが乙女
部屋に着くなり、玄関先でTシャツを脱ぎ始めたカイジに、赤木はわずかに目を丸くしたが、
「あんたも脱げよ」
半袖から腕を抜きながらかけられた言葉に、丸くなった目を細めて片頬を吊り上げた。
「大胆だなぁ、カイジ」
え、と呟いて、今度はカイジが大きな目を丸くする。
自分を眺める赤木の含みのある笑みに気がつくと、カイジの太い眉がきつく寄った。
「馬鹿なこと、言ってんなよ……部屋、水浸しにしたくないだけだって……」
これ見よがしに顰められた顔が、ほんのり赤く染まっている。
それを誤魔化すみたいに顔を背け、びしょ濡れのTシャツを雑巾絞りするわかりやすい様子に、赤木はますます笑みを深めた。
カイジの手の中できつく捻られた布から、大量の雨水が滴り、びちゃびちゃと音を立てて三和土に落ちる。
頭の上から赤木の上着を被っていても、これだけ濡れてしまったのだ。瞬く間に広がって灰色の床を黒っぽく侵食していく水溜りが、風と雨脚の強さを物語っている。
意外に筋肉質な腕に力が籠るのを、赤木がなんとなく眺めていると、
「大胆……っ、なのは、あんたの方だろが……」
若干吃りながら、怒ったような口調でカイジが言った。
大胆?
赤木は内心首を傾げたが、
「外であんなこと……もう、二度とすんなよな……」
ボソボソと蚊の鳴くような声で続いた言葉で、ああ、アレのことかと納得する。
アパートの前で思わずキスしてしまったことを、赤木は悪いなんてこれっぽっちも思っていない。
あの時したくなったから、した。赤木にとっては、ただそれだけのことだ。
周りには人っ子ひとり居やしなかったのだから、そんなに拗ねるなよ、なんて赤木は諭したくなったけれど、口に出せば羞恥心の強い恋人の目はますますつり上がること必至なので、苦笑とともに言葉を飲み込む。
子供のように唇を尖らせ、赤木の方を見ようともしないカイジ。
その幼い表情と、一丁前に今時の若者らしく筋肉の乗った体つきがなんだかアンバランスで、赤木の悪戯心を誘う。
口許に笑みを刻んだまま、音もなくそっと近づいた。
赤木から視線を逸らしていたカイジが忍び寄る魔の手に気づいたときには、既に赤木はカイジの両手首を、難なく捕らえてしまっていた。
「……わっ! ちょっ、赤ーー」
ーー油断大敵だな、カイジ。
驚きに見開かれた目を覗き込み、くっくっと肩を揺らしながら、赤木は掴んだ手首で縫い止めるようにカイジを玄関のドアに押し付ける。
くたくたに湿った布の塊がカイジの手から落ち、床の水溜りに落ちてびしゃりと音を立てた。
せっかく絞ったTシャツが、床の上でふたたび水を吸っていくのを見て、カイジは赤木を睨め付ける。
「……に、してるん、ですか……っ」
憤っているが、その声には焦燥が滲んでいる。急に丁寧語になったのは、無意識の怯えからだろう。
複雑な表情を至近距離で眺め、赤木は満足げな顔で視線を下へ巡らせていく。
冷たいドアに背を押し付けられ、カイジの逞しい腕には憐れなほど鳥肌がたっていた。
くっきりとした鎖骨と、胸。呼吸に上下する肌の上で、ちいさなふたつの突起は立ち上がっている。
体が冷え切っている証であるそれを、赤木が屈んで口に含むと、カイジは体をバネのように跳ねさせた。
「ぁ……っ、ゃ、なに……っ?」
艶めいた声を零すカイジを見上げ、赤木はクスリと笑う。
「冷えてるみたいだから、あっためてやろうと思ってな」
「あ、アホ……、っ!! あぁ、ん……ぅ……」
見せつけるように舌を大きく押しつければ、カイジは唇を強く噛んで罵倒と嬌声を飲み込んでしまう。
あたたかな口内でとろかしてやるように、やわらかく舌を絡めて吸い上げれば、たまらないといった風に身を捩る。
鼻にかかった甘いため息が、赤木の頭上からひっきりなしに降ってくる。
必死に声を抑えている分荒くなっている呼吸の音は、すでに熱く、湿っていた。
ぬるぬるとあたためられた両の尖りは、やがて寒さとはべつの要因で、より一層硬く勃ち上がってしまった。
ふやけるくらい存分に可愛がり、最後にちゅっと音を立てて吸い上げてから、離れる。
瞳を潤ませ、震える息を弾ませながら、カイジはくったりと扉に背を預けており、赤木が手首を離しても、体を動かすことさえできなくなっていた。
やにわに、赤木が濡れそぼって体に張り付く柄シャツを、釦も外さず頭から抜ぎ始めると、現れた白くしなやかな裸体に、カイジは上気した頬をさらに赤くする。
「あ、赤木さ……っ!」
咎めるように自分の名を呼ぶカイジに、赤木はわざとらしく苦笑し、脱いだシャツを三和土に投げ捨てる。
「なんだよ。お前が脱げっつったから、脱いだだけじゃねえか」
「そ……っ、それは、そうですけど……っ」
しどろもどろになって視線を逸らすカイジの、困り果てたような顔がいじらしく、赤木はますます虐めてやりたい気持ちを煽られる。
「しかし……冷えるな。なぁカイジ、俺のこともあっためてくれよ」
ぐっと体を近寄せて吐息で囁けば、腹の底がこそばゆくなるようなその甘さに、カイジが息を飲む気配がした。
「こ、こんな、とこで……っ?」
涙目でぐずぐずと非難めいた声を上げるカイジだが、赤木はそんなもの気にも留めない。
したくなったから、する。赤木にとっては、ただそれだけ。
だけれども、カイジは赤木のこのワガママな振る舞いに、未だすこしも慣れる気配を見せない。
「『外』じゃなけりゃ、いいんだろ?」
己が言ったことの揚げ足ばかり取られ、カイジはついに、むくれた顔をして黙り込んでしまった。
怒り、驚き、焦り、戸惑う。
短い時間の中でコロコロと変わるカイジの表情は、どれも飽かず赤木の目を愉しませる。
きっと一緒にいる限り、コイツはこの先もずっとこうなのだろうと赤木はほとんど確信的に思い、
ーー碌でもない男に捕まっちまったなぁ、カイジ。
そんな他人事めいた同情の言葉を、心の中だけでかけてやるのだった。
「なぁ……こっち見ろよ、カイジ」
笑いながらそんなことを言っても、そっぽを向いた膨れっ面が己に向き直らないことはわかりきっているから、赤木はその達者な口を閉ざし、固く引き結ばれているカイジの唇を、宥めるようにそっと塞ぐ。
外は強い雨が通り過ぎた直後で、まだ霧雨が落ちている。
そんな天気の中、わざわざ外へ出掛けようとするアパートの住人など当然おらず、ある一室の薄い扉が、しばらくの間ガタガタと不自然な音を立てていたことは、幸いにしてふたり以外の誰にも、気づかれることはなかった。
終
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