JUNE カイジさんが乙女


 ーー最悪だ。

 飯屋の軒先で空を見上げながら、カイジは思う。
 予報では、降水確率10パーセントだったはずだ。だから、傘なんて持ってこなかった。
 それなのに、昼飯を済ませて店を出てみれば、ついさっきまで晴れ渡っていたはずの空には灰色の雲が重く垂れ込め、大粒の雨が地面を叩いていた。

 カイジは舌打ちしたい気分になる。自分ひとりならば、まだ良かった。しかし、
「ああ、派手に降られちまったなぁ」
 ーーよりにもよって、この人といるときに。

 隣で同じように空を見上げる赤木の横顔を見て、カイジはボソボソと謝る。
「……すみません……」
「? どうして、お前が謝るんだよ」
 眉を上げ、自分を見つめてくる赤木の視線から逃れるように、カイジはうつむいた。
「オレ、こういうこと、よくあるから……」

 昔から、傘を持っていないときに限って雨に降られることが、しょっちゅうあった。
 博奕だけでなくこんなところにまで発揮される己の運の悪さを、カイジは呪わしく思ってはいたけれど、二十年以上もこの体質と付き合っていれば、さすがに慣れてくる。
 雨の中歩くのも日常茶飯事だったから、今日みたいな日にわざわざ傘など持ち歩こうとすら思わなかった。

 しかし、赤木が一緒にいるのに、それはマズかった。
 季節はすでに、梅雨入りしているのだ。こうなる可能性にだって、ちょっと考えれば気づけるはずだったのに、己の体質に慣れすぎて失念していた、だなんて。
 歯痒くて情けなくて、カイジはしょんぼりと肩を落とす。




 なんだか泣きそうな顔でうつむいているカイジを見て、赤木は苦笑した。
 べつに、お前さんのせいじゃねぇだろ。
 そんな当たり前のことを言っても、その表情は晴れなさそうだ。

 赤木はちょっと考えたあと、着ている白いスーツの上着をさっさと脱いでしまう。

「ホラ、これでも被っとけ」
「わっ……!」
 バサリ、と頭から被せかけられた上着にカイジが目を白黒させている隙に、赤木は篠突く雨の下へと踏み出した。
 あっという間にびしょ濡れになっていく、白い髪と派手な柄シャツ。
 ぴかぴかの革靴にも泥が跳ね、カイジは驚いて赤木の名を呼んだ。
「あっ、赤木さんっ……!」
「帰るぞ、カイジ」
 赤木がニッと笑いかけると、カイジはひどく慌てた様子で言う。
「よ、汚れちまうっ……!」
「構わねえって。濡れるのには、慣れてるから」
「で、でも……このスーツは……」
 頭の上からかけられたスーツをおどおどと外そうとするカイジに、
「いいから」
 そう言って、赤木はその腕を強引に引っ張って雨の中へと連れ出した。

 後ろから聞こえる悲鳴のような、抗議のような声を無視しながら、赤木は軽い歩調で歩く。
 まるで雨など降っていないかのように、その足取りは優雅で、ゆったりとしていた。
 

 なにを言っても聞く耳など持たず、土砂降りの街をマイペースに闊歩する赤木に、やがてカイジも諦めて口を噤んだ。
 腕を引かれ、覚束ない足取りでその後をついていく。
 掴まれている部分があたたかい。被っているスーツからは、よく慣れ親しんだ赤マルと、微かな赤木の匂い。

 カイジはなんとなく、ホッと息をついた。目の前には、真っ直ぐに伸びた背中。
 赤木はいつもこんな風に、ちょっと強引にカイジをいろんなところへと連れ出す。
 辟易することもあるけれど、でもやっぱり、好きだ。こういう強引なところも、丸ごとぜんぶ。

 雨に降られるのには慣れている、と赤木は言ったけれど、それはきっと、根無し草だったという若い頃の話だろう。
 今の赤木がこんな土砂降りの中を、普段から歩かなければならないような生活をしているとは思えない。
 きっと自分に気を遣って先の台詞を吐いたのだと思うと、カイジの胸は綿に包まれたみたいに、ほんのりとあたたかくなった。

 豪雨に煙る景色も、服に染み込む雨の冷たさも、赤木といると、不思議とやさしく感じられる。
 ちょっとだけ元気を取り戻したカイジは、赤木の後ろ姿をぼんやり眺めながら、強張っていた表情を緩めた。




 どうやら通り雨だったようで、ふたりがアパートの前に着く頃には、だいぶ雨脚も弱まっていた。
「晴れてきたな」
 雲間から覗く水色を見上げながら、赤木が濡れそぼった髪を掻き上げる。
 その仕草にぼうっと見惚れていたカイジは、ふと赤木に顔を覗き込まれ、反応するのがわずかに遅れた。
「……カイジ?」
「……え……?」
 すこし赤くなった顔で、きょとんと瞬きを繰り返しながら赤木を見つめるカイジ。
 黒い頭の上に白いスーツを被り、常よりわずかに双眸を大きく見開いているカイジの、あどけなくも見えるような表情を眺め、赤木はクスリと笑う。

「……雨に降られるのも、悪いことばっかりじゃねえな」

 ちいさく、悪戯っぽい呟きに、聞き返そうとカイジが口を開くより早く、赤木はベールみたいに白いスーツをそっと除けて、冷たく濡れた唇を重ねた。




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