煙たい男



 換気のため窓を開けると、じっとりと重たい空気が肌を撫でた。
 しとしとと降る針のように細い雨が、外の景色をぼんやりと煙らせている。

 初夏の早朝、まだ気温は低い。外気に触れたカイジは肌寒さに軽く身震いし、窓枠に手をついて外を眺める。
 人通りも、車通りもない。鳥の声も聞こえず、糠雨の音が響くほど静かな朝だ。

 濡れて色の濃くなった眼下の道路を見るともなしにぼんやりと眺めていると、ふわりと嗅ぎ慣れた香りが鼻先を掠めた。

 辛くて密度の濃い香り。自分の愛喫しているものとは、まったく違う、重たい香り。

 その香りに気を取られていたせいで、カイジは自分のすぐ真後ろにある気配に気づくのが一瞬、遅れた。
「おはよう。早いね、珍しい」
 窓の桟の軋む音に反応して起き出してきたのか、あるいはもっと前から目を覚ましていたのか。
 
 タバコを挟んだままの白い手が、窓枠についた自分の手の甲にそっと重ねられ、カイジは眉根をきつく寄せる。
「よせよ。誰かに見られたら、」
「誰かって……、烏の一羽もいないじゃない」
 カイジの肩の上に顎を乗せ、アカギはすこし考えるような間をおいたあと、
「オレはべつに、誰に見られたって構いやしないけど」
 淡々とそんなことを言ったので、カイジの眉間の皺はますます深まった。

 オレは構うんだよ、と言いかけて、鼻腔を掠める匂いに口を噤む。
 手の甲に重ねられた白い右手の、人差し指と中指で挟まれているタバコ。
 ゆらゆらと立ちのぼる煙、その向こうに霞む景色。
 それを、カイジは睨むように見た。

 いつの頃からだろう。
 雨の日にアカギに会うことを、カイジはひどく厭うようになっていた。
 雨の日は煙が籠る分、服に髪に、余計に染み込むのだ。
 自分とは違うタバコの香り。ハイライトの、重たい香り。

 
「……離れろよ」
「つれねぇな。昨夜はあんなにくっついてたのに」
 低く牽制するカイジの声を気にした風もなく、アカギは茶化すように言う。

「今日出ていくんだから、これくらいは許してよ」

 耳許を掠める囁き声に、『だから嫌なんだ』という言葉が口をついて出そうになるのを、カイジは唇を噛んで耐えた。


 カイジが厭うのは、煙の香りそのものではない。
 体に纏わりつくそれとともに、男の記憶が蘇ってしまうからだ。

 日常のふとした瞬間、あらゆる局面で、己の体から漂うそれで思い出す。
 香りというトリガーがある分、蘇るものは生々しい。
 くっきりとした輪郭を伴って、まるで男との会話を、行為を、体温を、追体験するような錯覚さえ覚えることがある。

 その上、服を着替えても髪を洗っても、記憶だけはいつまでも残ってしまうのだ。
 本人はいつもあっさりと離れていく癖に、そんなものだけがずっと付き纏ってはカイジを惑わせる。

 カイジは軽く目を伏せた。舌打ちしたい気持ちだったが、その代わりにため息をつく。

「……煙たい」

 煙にかこつけて、遠回しに隣にいる男のことを当て擦ってみる。
 振り払っても振り払っても、しつこく自分の中に残る、煙たい男。

 肌の奥まで染み込んで離れないような、存在感の疎ましさ。
 そうさせているのは己の意識に他ならないのだと、わかってはいてもカイジは男に悪態をつかずにはいられなかった。


 アカギはカイジの顔を横から覗き込み、クスリと笑う。

「その顔。ーーあんたにそういう顔、させるのって悪くない気分だ」

 意地の悪い笑み。なにもかもを見透かすようなそれに心底嫌気がさして、顔を背けようとするがそれすら顎を固定されて阻まれた。

 アカギの笑う振動が、密着する体から伝わる。
 忌々しくて、カイジは今度こそ舌打ちしたが、男は気に留めた風もなく、紫煙の上がるタバコを持ち上げる。

「いなくなっても、オレのこと思い出してね。カイジさん」

 嫌がらせのようにそう言って、男はハイライトを深く吸い込む。
 それからカイジの後頭部に唇をつけ、黒く長い髪に香りを籠らせるように、長く長く煙を吐き出した。






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