幸福 カイジの親戚関係捏造あり



 錆びた階段をのぼりながら、ネクタイに指をひっかけて緩める。
 ドアを開けると、出迎えてくれるのは真っ暗な部屋。
 多大な疲労感と、普段なら感じないわずかな寂寥感がふっと心を過ぎった気がして、カイジはそれを打ち消すように、わざと大きなため息をついた。


 灯りをつけ、雑然とした部屋の床に、提げていた紙袋を放り出そうとして、ふと、小腹が空いていることに気づく。
 紙袋の中を探ると、分厚いカタログと、正方形の箱がひとつ、入っていた。

 箱にかかっている『寿』の熨斗を剥がして蓋を開けると、中身はどっしりと大きなバウムクーヘンだった。
 結婚式の引き出物という時点で中身はだいたい予想がついてしまってはいたが、それでもカイジは、ガッカリしてしまう。
 正直、今はもうちょっと腹に溜まるものが食べたかった。
 しかし生憎、カップ麺は切らしているし、炊飯器もカラだし、かといって自炊する気力もない。
 仕方なく、カイジはバウムクーヘンを腹の足しにすることに決め、コーヒーを淹れるために湯を沸かし始めた。


 ヤカンを火にかけて待つ間、カイジは足を投げ出して居間の床に座り込み、ただただ放心の体でぼんやりする。
 慣れない結婚式になど出席したせいで、異様なほど疲れていた。

 母方のいとこが結婚し、都内での式に出席したのだ。
 カイジのもとにも招待状が届き、なんだかんだと理由をつけて欠席しようと目論んでいたのだが、碌に働きもせず毎日これといった予定もないことを知っている母親に先手を打たれ、必ず出席するようにと電話で釘を刺されてしまったのだ。

 いとことはそう仲が良いわけでもないし、祝儀代は痛いし、なにより近ごろはほとんど会う機会もない親戚と顔を合わせるのがひどく気が重かった。
 こちらにさほど興味がないくせに、社交辞令で『今、なにしてるの?』などと訊かれ、作りたくもない愛想笑いに顔を歪めてお茶を濁さなくてはならない。
 とてもとても、たまらなかった。披露宴の間中ずっと、一刻も早くこの場所から逃げだしたいとばかり考えていた。有名レストランのシェフが担当したという料理の味も、高級そうなシャンパンやワインの味もわからないほどに。
 そんな状態で気持ちよく酔えるはずもなく、イヤな気疲れのせいで、安くて質の悪いアルコールをひっかけるよりもかえって悪酔いしたような具合になって、帰り道もかなりキツかったのだ。


 そもそも、ああいういわゆる"ハレ"の場は、昔から苦手なのである。
 カイジがもっとも遠ざけたい類の、濃密な人間関係というものがそこにはひしめいていて、つくづく自分という存在がそぐわない場所のような気がしていた。
 ちぐはぐで、浮いているように思えてならず、友人代表挨拶やヘタクソな歌の余興など、感動するどころかいたたまれなくて変な汗が出てしまうのである。
 心だけでなく体までも拒否反応を示すとは、よほど性に合わないのだろうと、カイジは今回、身にしみて実感させられた。

 そういうわけだから、本日の疲労感もひとしおで、ひとりの自室に戻った瞬間、カイジはものすごくホッとした。
 だけどそれと同時に、ハレとケの凄まじいまでのギャップに、侘しさのようなものが心に去来する。
 それも、カイジは苦手だった。その心の動きはほとんど条件反射のようなもので、祭りが終わったあとのどうしようもないやるせなさに似ている。
 祝福はすれど、幸福そうなふたりを羨ましいなどとはこれっぽっちも思わないのに、寂しさが湧いてしまう自身の心のままならなさを、腹立たしくさえ思った。



 しばしの間ぼうっとしたのち、一服しようとカイジはタバコを取り出す。
 卓袱台の上の灰皿を引き寄せようとして、そこに置いてあるバウムクーヘンが目に入った。
 蜂蜜色した年輪の真ん中に、ハート形の穴があいている。
 幸福のお裾分けってか、と僻みっぽく思いながら、カイジはタバコに火をつけた。

 金もない。仕事もない。うだつも上がらない。
 なんにも、めでたいことなんてないのだ、自分には。

 それなのに、こんなものを食おうとしてる。仕方なく。あまり食いたくもないのに。
 新郎新婦にも親戚にも、ましてバウムクーヘンにだってなんの罪もないけれど、疲れがカイジにそんな捻くれた考えを起こさせる。



 タバコの煙を肺いっぱいに吸い込み、お裾分けされた幸福さえ逃げていきそうな、深い深いため息とともに吐き出す。
 ゆらゆら揺れる白い煙を眺めるともなく眺めていると、玄関のドアをノックする音が聞こえてきた。
 聞き覚えのあるその叩き方に、青黒いクマのできたカイジの目が大きく見開かれる。

 他の誰が訪ねてこようとも、今のカイジなら居留守を決め込んだだろう。だが、このノックの主だけは別だった。

 吸いかけのタバコを灰皿に置き、立ち上がって玄関に向かう。
 ドアを開けると、そこに立っていた人物は、カイジの姿を見るなり緩く首を傾げ、
「就活?」
 と訊いてきた。
「ちげぇよ。……つか、まず挨拶くらいしろ、アカギ」
 うんざりした口調でカイジが言うと、アカギはクスリと笑う。
「こんばんは、カイジさん。久しぶり」
「おう」と返事をしてから、カイジはなんとなく目を逸らした。

 前に会ったときから多少間が空いているので、なんとなく照れくさいのだ。
 それに気づかれぬよう何気ない風を装いつつ、
「上がれよ」
 と促すと、アカギは頷いた。





 居間に足を踏み入れると、アカギは「ああ」と合点がいったような声を上げた。
「だからスーツなんだ。誰の?」
 アカギの目線の先には、床に打ち捨てられたままの『寿』の熨斗。
 口を開いたあと、カイジはわずかに逡巡し、
「ダチだよ」
 と答える。

 アカギは意外そうに眉を上げた。
「……なんだよ、その顔は」
「友達?」
「だって言ってんじゃん」
「本当に? いたんだ、友達なんて」
「どういう意味だよっ……!」
 怒ったように言い返しつつ、カイジは慌てて話題を変える。

「お前、メシは? 今、うちなんもねぇぞ」
「お構いなく。あんたはコレ、食おうとしてたの?」
 アカギは床に座りながら、卓袱台の上のバウムクーヘンを示して言う。
「そう」
 ーーオレ自身にはめでたいことなんか、なんにもねぇけどな。
 自嘲気味にそう言いかけて、カイジは言葉を飲み込んだ。

「あー……」
 そういや、たった今やって来たな、めでたいこと。

 久方ぶりに顔を見ることのできた恋人をじっと見つめていると、視線に気づいたアカギが「……なに?」と問うてくる。

 金もない。仕事もない。うだつの上がらない人生。
 だけど目の前の男は、確かにカイジにとって、当座の幸福そのものなのだ。
 風のように掴めず握れず、すぐにどっかへ行ってしまうけれど。


 カイジはこの日、初めての作り物じゃない笑みに顔を綻ばせる。
 強張っていた頬が引きつって、なんだかぎこちない笑顔になった。

 それでも、ほんのすこしだけ元気を取り戻したカイジは、訝しげな顔のアカギに向かって訊く。
「お前も食う?」
 アカギは首を横に振った。
「じゃあ、コーヒーは?」
「飲む」
 アカギはポケットからハイライトを取り出しながら、カイジを見て目を細める。
「言い忘れてたけど、いいね。スーツ姿」
「え、そうか?」
「うん。そそる」
「……嬉しくねぇ!」
 カイジの仏頂面に、アカギはくつくつと喉を鳴らした。
「ところで気になってたんだけどさ。本当は誰の結婚式だったの?」
「!! ほ、本当ってなんだよ? ダチだって言ってんだろーが……っと、湯が沸いたみてぇだなっ……!!」
 けたたましいヤカンの音を天の助けとばかりに、すっくと立ち上がるカイジを見上げ、アカギはタバコに火を点けつつ、笑う。
「ふふ……まぁ、友達だってことにしといてやるよ」
「う、うるせー! なんだそのムカつく言い方っ……!!」
 ヤカンの音に怒鳴り声と低い笑い声が重なり、ついさっきまで寂寞としていたカイジの部屋は、まるであたたかい灯がともったように、やにわに賑やかになった。






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