涙 短文



 隣で声も上げずに泣く男を、アカギは横目で見ていた。

 平日の夜、うらぶれた通りにあるバーはガラガラに空いている。
 客はカウンターに座っているふたりだけで、ママは明日の仕込みがあると、そこそこの常連であるふたりに言い置いて、ついさっき裏へ引っ込んでしまった。

 薄暗く絞られた照明の下、木製のカウンターに塗られたニスがつやつやと茶色く光っている。
 その上に置いたグラスを、カイジは両手で握り締めるようにして、水面を覗き込むように、深くうつむいているのだった。


 その目に映っているのは、アカギの知らない時間を生きていたとき、なくしたいくつかのものたち、なのかもしれない。
 ぱた、ぱたっ、と音をたてて千切れ、グラスの中に落ちる、涙。
 無色透明なそれは、同じく透き通った水割りに溶けても、まったく色を変化させない。

 それを、アカギは時折、不思議に思うのだ。
 他の人間はともかく、この男の涙に、なぜ色がないのだろうと。

 この男の涙は、血のようなものなのだ。体ではなく、心の痛みから流れ出る、血液。
 それなのに、まるでその色を忘れてきたかのように透き通っているのが、心底不思議だった。

 もしかすると、燃えるような赤い色素は、目から流れ出る前に、すべて体内で濾し取られてしまうのかもしれない。
 排出されることなく、熱く体の中を駆け巡り続ける、その赤。
 煮え滾るようなそれが男を生かしているのだと考えると、今流されているものが透明であることにも、アカギはすんなりと納得できるような気がするのだった。

 琥珀色の液体を嘗めながら、アカギは考える。

 だとしたら、この男の血液は、どんな色をしているのだろう。
 そして、それを送り出す心臓は。

 どんなにか鮮烈な色をしていることだろう。
 眠ったような生き方をする自分の目を醒まさせるくらい?
 目の奥に灼きついて、死ぬまで離れなくさせるくらい?

 そんな、取り留めもないことをつらつらと考えていたら、いつの間にか横顔をじっと注視してしまっていたらしく、気がつけば濡れた三白眼が、アカギの顔を不審げに見つめていた。

「……んだよ。人の顔ジロジロ見やがって……」
 鼻声でそう言って、カイジは赤い目許を手で擦る。
「今さら……、珍しくもなんともねぇだろ」
 アカギの前で頻繁に泣き顔を晒していることを、自嘲するみたいに呟くちいさな声。
 不貞腐れているみたいにも見える男の泣き腫らした顔を見ながら、アカギは言った。

「見てみたいな、と思って。あんたの心臓とか、血の色とか」

 カイジはひどく面喰らった顔になる。
 眉根を寄せ、突拍子もない発言の真意を探るようにアカギの瞳を覗き込んでいたが、そこに浮かぶのがいつもの静かな色だとわかると、諦めたようにため息をついた。
「悪趣味っつうか……やっぱ狂ってんな、お前……」
「そう?」
「オレはお前の心臓や血なんざ、見たくねぇ」
「うん」
 生真面目な返答に相槌を打ちながら、アカギが緩く唇を撓めると、カイジはますます仏頂面になる。
「妙なヤツ……」

 それでもアカギと会話を交わすうち、カイジはようやく、落ち着いてきたようだった。
 ベタベタに濡れ光る頬を掌で拭い、バツが悪そうに逸らされる潤んだ黒い目を見て、アカギは声を立てずに笑う。

 それから、手を伸ばしてカイジの手中にあるグラスを横から奪い、熱い涙の溶け込んだ透明な水割りを啜ってみた。






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