Fold the flag 過去拍手お礼




「吊り橋効果、っていうのかな」

 波の音に紛れて、ぼそりと呟く声。
 カイジが眉を寄せて隣を見遣れば、滲んでぼやけた視界の中、白い男の横顔が見えた。

「不思議とここに立ってから、あんたがいつもの二割増しくらい、いい男に見える」

 相変わらずふざけたことを言う奴だ、とカイジは呆れる。
 常日頃から綱渡りのような生き方をしている男だ。立っている場所が場所とはいえ、今さら吊り橋効果もクソもないだろうと、苦虫を噛み潰したような顔でカイジは思う。
 そもそも言葉と裏腹に、男の双眸は真正面の暗い空ばかりを見つめているのだ。

「……そんなこと言ってお前、さっきからオレのこと、見てねえじゃねえか」

 呻き声以外のまともな声を発したのが、ひどく久々だったためだろうか。
 喉で潰れた歪な塊のようなその台詞は、波と風の音が絶えず渦巻くこの場所では非常に聞き取りが困難だったが、白い男はカイジの方に顔を向け、静かに鋭い目を細めた。

「ずいぶん長いこと言ってなかった気がするけど。……好きだよ」

 吹き荒ぶ風に髪を弄ばれながら、男は唐突に告げる。
 気に入りの歌でも口ずさむような軽やかさ。珍しく弾んだ口調に、カイジは渋面をさらに顰める。

「こんな時に、馬鹿かお前は……」
「こんな時だから言うんじゃない」

 男がこんなにも愉しそうなときは、十中八九、碌なことが起こらない。
 嫌と言うほどそれがわかりきっているカイジは、深く深く、体中の空気が抜けきってしまうようなため息をつきながら、背中を丸める。
 肺の中の空気ごと、体の中に淀んでいたものを吐き切ってしまったら、今度は潮の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、背筋を伸ばして黒い空を見上げた。

 今夜は新月。星も出ていない。
 不幸中の幸いか、足許の遥か下にある水面は穏やかに凪いでいるが、波が岩を噛む厳しい音が耐えず鳴っている。

 カイジはもう一度、深く深呼吸してから、瞬きで涙を払う。
 ふたたび隣を見て、クリアになった男の姿を睨むようにして、吐き捨てた。

「オレは、ぜったいに言わねえからな」

 生きるか死ぬかという瀬戸際に、滅多に口にすることのない相手への想いを告げるなど、そんな不吉なことを平気でできるような神経を、カイジは持ち合わせていない。
 間違っても、男のように己の命に対して無頓着にはなれない。でも、だからこそ、カイジは男とこうしてふたり、ここまで生き延びてこれたのだとも言えた。


 男はカイジを見て、喉を鳴らして笑う。
 その目の澄んだ輝きの、怖いくらいの美しさに、カイジが思わず見とれていると、男はそっと口を開いた。

「生きてまた会えたら、あんたの方からも聞かせてくれ」
「だから……、」

 そういうことを軽率に言うなと怒鳴ろうとした、カイジの舌が凍りつく。

 背後の方から上がった、複数の男の声。
 確実に、自分たちのいる断崖の方へと迫ってくる。

 男と過ごすようになる前からずっと、命を賭けた『決断』を数多下してはきたけれど、到底慣れるものではないと、カイジは唇を噛む。
 それでもようやく腹を括り、男の目を見て静かにひとつ頷けば、男は弓形に唇を撓め、
「じゃあ、またね」
 相変わらず歌うような軽い調子で、カイジに向かって言った。



 放課後の小学生が友達にかけるような、気楽な言葉にカイジが思わず苦笑を漏らした瞬間、灼けつくような眩しい灯りが、背後からふたりを照らし出す。

 カイジは焦燥に舌打ちする。振り返る余裕などない。
 隣で男の笑う気配を感じながら、カイジは大きく息を吸い、断崖への一歩を踏み出した。

 怒号と罵声の響く中、ふたりの男は吊り橋などかからない真っ黒な空に向かって、踊るように体を投じたのだった。






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