てのひらを カイジさん視点


 走って、走って、走って。
 死ぬほど走って、たどり着いた路地裏で、足がついに動かなくなり、地面の上にくずおれた。

 無理をさせすぎた膝がガクガクと震え、全身から汗が滝のように吹き出して乾いたコンクリートの上にぽたぽたと落ちる。
 酸素を上手く取り込めず、体を折って激しく噎せた。
 その場に座り込むだけでは苦しさを耐えきれず、手足を投げ打ち、大の字になってその場に寝転ぶ。

 自分でも耳障りなほどうるさい呼吸を整えながら、ビルのビルの間の、細長く切り取られた空を見上げた。
 ちょうど真上で燦々と輝く太陽。その白い光に目を灼かれ、だるい腕を持ち上げて掌で日差しを遮る。

 生々しい傷痕の残る指の先が、うっすら赤く透けている。
 ホントにちゃんと血管繋がってんだな、とか、疲労感に朦朧とする頭でどうでもいいことを考えていると、

「なにやってるの」

 すぐそばで声がして、飛び上がりそうになった。
 しかし、太陽を背にヌッと覗き込んでくるシルエットには見覚えがあったので、オレは安堵のため息をつく。
 緊張に張りつめられていた四肢が緩んだ。
「おまっ、足音っ……消すなよっ……、つか、なんで、こんなとこ……、しげるっ……!」
 途切れ途切れに文句を言うと、あっさりとした答えが返ってくる。
「雀荘から帰る途中、あんたがキナ臭い連中と鬼ごっこしてるの見かけたからさ。あと、つけてみた」
 無様な醜態を見られていたことへの羞恥が心に兆すが、圧倒的な疲労感のせいですぐにどうでもよくなってくる。
 目を眇めてしげるの顔を見ようとするが、逆光で真っ黒になっていて、その表情は窺えなかった。

 日差しを遮るために伸ばしたままのオレの掌を見て、しげるが口を開く。
「ミミズだってオケラだって、カイジさんだって生きている」
「……うるせぇよ……」
 戯言めいた言葉に渋面をつくれば、しげるは低く喉を鳴らしてひっそり笑う。
「本当に生きてるって言えるのかね。あんたも、オレも」
「……」
「冗談だよ」
 しげるはそう呟き、黙った。

 にわかに心へと去来するいたたまれなさに、オレは唇を噛む。
 暗中模索の日々、無為な暮らし。
 まっとうな人間社会には溶け込めず、一発で人生をひっくり返してしまえるような、大きなギャンブルに身を投じたいと常に胸を焦がしながらも自堕落な生活を続け、こんな風に取り立てから逃れるときだけ、全力を出している。
 太陽に向けた掌は、未だなにひとつ掴めず、焦りばかりが心を埋め尽くしていくけれども、それだけ。

 死んでるみたいに、生きている。
 そのことを、しげるは見抜いているのだ。

「『実感』が、欲しくはない?」

 ふいにしげるが呟いて、オレは目を眇める。
 相変わらず逆光で影になって、その表情は読めない。
 
「あんたとなら、得られそうな気がするんだ」

 急に気温が低くなったような気がして、引いた汗の冷たさに胴震いする。

「オレだってきっと、あんたに与えてあげられるよ」

 囁くような声は、静かに通りの喧騒を掻き消して、オレの耳にだけ届く。

「オレと『生きて』みない? カイジさん」

 ゆっくりと、誘うように。
 しげるがそう言った瞬間、無意識に唾を呑み込んでいた。

 見上げるしげるの姿は底知れぬ闇のようで、そちらに手を伸ばしたら最後、二度と太陽の光など拝めないほど深い場所へと、沈んでいく他ないのは明白だった。
 しかし、苦しいはずの息すら忘れるほど、オレはしげるの誘いに惹かれてしまう。

 魚の体のように冷たい手が、太陽に熱されたオレの掌に触れる。
 心臓が、生きている証を刻むように、ドクン、と大きく脈を打った。




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