夕景 喧嘩した話 短文


 開け放した窓から春の夕陽が射し込む部屋では、白い煙さえ橙に染まる。
 灯りも点けていない、黄昏時の薄暗い天井に溶けるように消えていくそれを見上げながら、アカギは深くため息をつく。

 それと同時に、しんと静まり返っていた部屋の隅の方から、男の低い声が、ぽつりと漏れ出した。

「……オレは、お前が大嫌いだ」
 ぼんやりと虚空を漂わせていた視線を、声のした方へと投げる。
 自分に背を向け、壁際に丸くなっている後ろ姿を見て、アカギはフッと笑った。
「奇遇だな。オレも、おんなじこと言おうとしてたんだ」
 タバコを咥えたまま口角を上げると、切れた唇の端が引き攣れ、ピリッとした痛みが走った。

 喧嘩をした。
 発端は、呆れるほど些細なことだった。
 くだらなすぎて、長い諍いの途上で、きれいさっぱり忘れてしまうほど。
 きっと、壁を睨んでいる相手だって、そうなのだろう。

 互いにそう口数の多い方でもないから、まともな口論なんてのは、まず成り立たない。
 ふたりの喧嘩は往々にして、不毛な罵声の応酬と成り果て、挙句、手が出る、足が出る、といった有様で、終わる頃にはすっかり日も暮れ、残るものと言ったら多大な疲労感と、無数の痣や傷くらいのものだった。

 殴って、蹴って、取っ組み合いしながら固い床の上をゴロゴロ転がる。
 まるで、ちいさな子供のようだった。
 いい歳した大人が揃いも揃って、こんなに幼稚な喧嘩の仕方しか知らない。

 床に丸まったままピクリとも動かない相手の姿を眺めながら、アカギはタバコを深く吸う。
 ぼさぼさの長髪、丸まった背中、裸足の踵。
 不思議なことに、思う存分喧嘩したあとには、かえって相手への慕わしさが募るように感じられる。
 それは言いようもなく甘くて、最高にぞっとしない感情だった。

 喧嘩すればするほど、ますます相手を好きになっていくなんて、いかれてる。
 そう思っているのはきっと相手だって同じで、だからこそ、喧嘩が終わると必ず言うのだ。

『お前なんか、大嫌いだ』と。
 お互い、自分に言い聞かせるように。
 
 本当に、子供みたいだ。
 子供みたいに仲が良いくせに、それを認めたがらないふたり。

 アカギはちょっと苦笑して、自分と同じくらい意地っ張りな恋人の背中に語りかける。
「好きなものより嫌いなものが似てる方が、夫婦としては長続きするらしいよ」
 猫背の背中は動かなかったが、ややあって、衣擦れのようにささやかな声で返事が来た。
「なんの話だ……」
「よく似てるお互いのことが大嫌いなオレたちは、実は最高に相性がいいんじゃないかってこと」
 口笛吹くようにそう言うと、怪訝そうな声が返ってくる。
「は? お前とオレの、どこが似てるっつうんだよ……」
「似てないかな」
「似てねえだろ」
「ふふ……」
 そっけない返事に、アカギは喉を鳴らす。
 


 窓の下を、車が走り抜ける音がする。
 春の夕方の風は涼しく、どこからか花の匂いを運んでくる。

 なんて甘い夕景だろうと思いながら、アカギはひとりごとのように呟いた。

「ねぇ、一緒になろうか。カイジさん」

 茶化すように、冗談めかした言葉を使うのは、いいかげん、背中ばかりを見飽きたから。
『こっちを向いて』と言えないのは、ひねくれているから。

 だから、相手の嫌がりそうな軽口なんかを叩いて、気を引こうとしてみるのだ。

 果たしてアカギの意図に、気づいているのかいないのか。
「お前のそういうとこ、本当に嫌いだ……」
 愚痴を漏らしながらも、相手はアカギの狙いどおり、ちょっとだけ振り返ってくる。

 頬を腫らし、自分と同じように唇の端に血を滲ませている、ぶすくれた顔。
 ずいぶん久しぶりに見たような気がするその顔に、まるで子供みたいに他愛なく気分が高揚するのを感じて、アカギはちょっと、苦々しく思う。

 恋とは、なんて厄介な感情なのだろうと。





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